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岩井克人 「憲法九条および皇室典範改正私案」

 ●憲法九条については、 日本国民は 一、自らの防衛 二、国連の指揮下にある平和維持活動、三、内外の災害救助、 の三つの目的にその活動を限定した軍隊を保持することを世界に明言する。
 ●皇室典範については、一、皇族は男女ともに皇位継承の資格を持つ、 二、皇位継承資格者はその資格を放棄する権利を持つ、 三、天皇自身も自らの意志で皇位を退く権利を持つ、という内容に改正する。
 日本列島の歴史においていつしか成り成りてきた天皇制の中で、天皇とは私たちの意志を超えて存在し続けてきた (「個人」という人格ではない) もののように見えている。だから私たちは過去のみならず現在においても、自分たちが天皇に対して主権者であるという意識を持つことができない。
 実はこのことは、天皇自身が (「個人」という人格ではないため) 天皇であることを選ぶことができないということと表裏一体をなしている。天皇には職業選択の自由も信教の自由もなく、選挙権も被選挙権もない。即位を辞退する自由も退位する自由もない。
 つまり日本人としての基本的権利がない。基本的権利のない人間が私たちのシンボルであるというのは、どうみても戦後混乱期の一時しのぎの言い逃れである。それが半世紀以上も手付かずである。
 良い例が「お言葉」である。象徴天皇制においては、本来ならば天皇の言葉は私たち国民の言葉であるはずである。だが日本の現実のなかでは、大多数の国民はその「お言葉」に対して自分たちが責任を負っているとは到底思うことができない。それでいて天皇自身も、「お言葉」は内閣の助言によるもので、自分が書いたものではない以上、自分の言葉に関して責任をもてない。主権者もその象徴も、誰も自分の言うことに対して責任を感じていない。
 ここに真の意味での無責任体系、主権と責任に関する空洞が成立する。日本の国民は自らの国の運命に自ら責任を取ることができず、世界の人びとに根源的な疑惑と恐れを、これからも与え続ける。
 いままで改憲を声高に言う人は、よい意味では現実を知る人であり、悪い意味では国威を発揚したい人であった。護憲を声高に言う人は、よい意味では平和を祈願する人であり、悪い意味では現実を見ない人であった。もし憲法九条を改正するとしたら、皇室典範の改正と一対のものにする。そうすることによってはじめて、主体性を持った世界市民として、現実を見つめつつ平和を祈願することが可能になるのではないだろうか。
 この岩井氏のエッセイは一九九六年、朝日新聞「フォーラム二十一委員」として寄稿を委嘱された『二十一世紀への提言』として書かれたにもかかわらず、「説得力がない」として掲載を拒否されたらしい。驚いた岩井氏がただちに抗議し二ヶ月以上も交渉したところ、朝日側は「天皇制の問題ではなく、憲法九条の改正を論じた部分が新聞社の基本方針と合わないから掲載を拒否した」と言ったという。「天皇制の問題ではない」とは見え透いたことを言うものである。
 日本メディアの代表を自認する大新聞社らしく、「問題先送り・責任回避主義」がよく現れている。私たちは、先の戦争時の朝日の「協力新聞」ぶりも、戦争が終わった途端の「進歩的メディア」への豹変ぶりも忘れてはいない。そして上の掲載拒否問題である。寄稿を依頼しながら掲載を断るとは何ごとと気色ばむ大物東大教授・岩井氏に突っ込まれ、舌先はくるくる回るが不動の大原則を持たない論説委員の、あわてぶりと不機嫌が見えるようだ。それにしても一次回答の「説得力がない」とはすごい。「教授、危険すぎますよ!現行天皇制はとりあえず多くに人に支持されているんですから、なにも今言い出さなくても!」と言っていれば、穏やかに交渉は進んだのに、と思う。
 挙句の果てに岩井氏に、ちくま学芸文庫でことの経緯を暴露されれば、「とりあえず、とりあえず」で何ごとも突き詰めて考えてこなかった大新聞社の「サラリーマン知識人」ぶりは隠しようがない。