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谷崎潤一郎 「陰翳礼讃」

 p35
 もし日本座敷をひとつの墨絵にたとえるなら、床の間はもっとも濃い部分である。・・・そこにはこれという特別なしつらえがあるのではない。要するにただ清楚な木材と清楚な壁を以てひとつの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が凹みの此処彼処に朦朧たる隈を生むようにする。にも拘わらず、われわれは落懸の後ろや、花活けの周囲や、違い棚の下などを填めている闇を眺めて、それがなんでもない蔭であることを知りながらも、そこだけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。思うに西洋人の云う「東洋の神秘」とは、かくの如き暗がりが持つ不気味な静かさを指すのであろう。
 日本人なら誰でも理解できる、もっともな高説である。古寺や有名旅館などで一度は実感したことのある日本建築の妙なる部分を述べる際の、流れるような平易な言葉の連なりには、素人の思いを裏書きしてくれる説得力がある。祖国の「永劫不変」を聞いて不快になる国民は少ないし、それが一級品の文章に載せて語られれば、大戦前夜の発表当時から現在までの、この評論の人気には充分な理由がある。しかしながら、谷崎のこの日本的美しさの礼賛は、その土台の一部が「呑気」と「無知」から構成されていることを知って、まさかと驚くひともいる。
 p16
 もしわれわれ(日本人)がわれわれ独自の物理学を有し、化学を有していたならば、それに基づく技術や工業も自ずから別様の発展を遂げ、日用百般の機械でも、薬品でも、工芸品でも、もっとわれわれの国民性に合致するような物が生まれてはいなかったであろうか。いや、恐らくは、物理学、化学そのものの原理さえも、西洋人とは違った見方をし、光線とか、電気とか、原子とかの本質や性能についても、今われわれが教えられているようなものとは、異なった姿を露呈していたかもしれないと思われる。私にはそういう学理的のことは分からないから、ただぼんやりとそんな想像を逞しゅうするだけであるが、しかし少なくとも、実用方面の発明が独創的の方向をたどっていたとしたならば、衣食住の様式は勿論のこと、ひいてはわれらの政治や、宗教や、芸術の形態にもそれが広汎な影響を及ぼさないはずはなく、東洋は東洋で別個の乾坤を打開したであろう。
 「われわれ独自の物理学」とは何のことだろうか、大谷崎のことだから、一瞬冗談だろうと思った。しかし数行あとに「私にはそういう学理的のことは分からないから」とあるから、谷崎は本当に、この方面についてはまったく音痴の不思議な「大作家」だったのだと、呆れながら悟った。
 近代以降において、物理学は、古代・中世のような宗教解釈学ではなく数学なのだから、「ある国独自の物理学」などはありえないし「原子とかの本質や性能が、異なった姿を露呈していたかもしれない」こともありえない。谷崎のこだわる室内の明るさが光源からの距離の二乗に反比例することは西洋も東洋も同じだし、特殊相対論のE=MCC(発生エネルギーはその物の質量に光速の2乗を掛けた数値に等しい) は世界共通だからこそ、原発原子爆弾も世界共通に怖いのである。谷崎は東大卒のはずである。
 ひっくり返して考えると、『陰翳礼讃』における谷崎の日本的事物・現象の礼賛は、奇怪ともいえる「日本独自の科学のありかた」を想像していたからこそ成り立ったということができる。その「独自性」が単なる蒙昧の幻であることを誰か異分野の大家(例えば湯川秀樹)に、深いところから指摘されていたらどうなったか。東洋という「別個の乾坤」を、谷崎ははたして健康に展開できただろうか。異分野の大家(湯川秀樹)がそのような下品なマネするはずもないが。
 アインシュタインの特殊相対論が発表されたのは1905年である。『陰翳礼讃』が書かれたのは1932年である。この間28年も経過している。谷崎はその間、外界について何も勉強しなかったのだが、のちに『痴人の愛』を書く彼は「日本では高校生レベルの科学知識もなくて文豪になれる」と世界に公言したわけである。何度も候補に上ったらしいノーベル賞をもし取っていたら、いったい何をスピーチしていたことやら。谷崎の評論は、次の『恋愛及び色情』のようなものを読むに限るのかもしれない。

 p98 
 浮世絵の美は西洋人によって発見され世界に紹介されたという話を聞くが、考えてみるとこれはわれわれの恥辱でもなければ、西洋人の卓見でもない。世界に宣伝してくれた西洋人の功績を徳とし深く感謝するものではあるが、正直に言ってしまえば「恋愛」や「人事」でなければ芸術ではないとする彼らには、浮世絵が一番分かりやすかったのである。われわれは恋愛に芸術を認めないわけではないが、うわべはなるべくそ知らぬ風を装うのが社会的礼儀であった。そのわれわれが浮世絵に対して尊敬を払うわけには行かなかったことを、彼らが分からなかっただけに過ぎない。

 ・・・・まぁ、とはいってもこの作品が書かれたのは昭和8年、満州事変はすでに起きている。谷崎が個人的に気の弱い人なら、時局を忖度する随筆の一つも書いたかもしれない。
 問題なのは、そうした時代との関連をまったく顧慮せず、しかも書かれた内容に踏み込んだ検討もしないでただひたすら有難がりつづけた出版界とメディアの態度なのかもしれない。