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井筒俊彦 「哲学の崩落と崩落の崩落」

 p185
 「創造」が深刻なアポリアをはらむということ。
 
「創造」とはある特定の時の一点において世界が存在し始める、それまで「無」であった世界が「有」に転換するということである。「創造」をよそにしては、ユダヤ、アラブのセム一神教は宗教的にも哲学的にも成り立たない.
 しかし創造の「時点」を考えるということは、それ「以前の」時間を想定することだ。だが、世界が創造される以前の時間とは、どのような時間だろうか。世界の存在以前の時間であるからには、それはそこに何一つない空虚の時間でなくてはならない。
 しかし元来時間は、アリストテレスをまつまでもなく、運動あるいは変化の尺度(数字)なのであって、動くもののまったくない、神学が想定するような世界の存在以前の状態にあっては、時間は存在し得ないはずである。時間なるものは、世界の存在とともにのみあり得るものでなければならない。だから、もし強いて、世界の創造以前に時間があったと仮定するなら、それは「時間以前の時間」ということになろう。 
 要するに、時間の前に、つまり時間がないところに時間があるという、まことに不可解な事態を想定せざるを得ないのである。しかもこの「時間以前の時間」は、当然、「創造」の瞬間に至って終点に達するはずである。終点があって始点のない無限に長い時間。無限に長い時間が終点に達する、経過し終わるということ自体、自己矛盾的だが、そのような自己矛盾的時間の無限の長さだけ神は世界の存在に先行するというわけである。根源的なアポリアである。
 P193-194
 (十一世紀ペルシャガザーリーは)時間は、我々人間の主観的機能それ自体のなかに構造的に始めから組み込まれている認識の形式であるとした。我々の心は生まれつき、ある種の事態をそういう形でしか認識ができない、ということである。
 時間をこのように徹底的に、人間意識の純主観的な認識の型と見ることは、カントの批判哲学における直観形式としての時間・空間論を経てきている私たち近代人にとっては、それほど珍しい考え方ではない。しかし、アリストテレス形而上学を墨守するヨーロッパ中世哲学のコンテクストでは、思想界を震撼させる革命的なものであった。
 ガザーリーは言う。 心の外側に客観的に実在していない事物や事態を、我々が生まれつきの能力として形象喚起的に作り出したもののひとつが時間なのだ。「創造論」に関して言えば、創造というある時間的始点を措定したとたんに、「それ以前の時間」を「想像」せざるをえない。人間の心の機構がそういうふうにできている。
 このように「進んだ」イスラム哲学に触れ、十字軍の連戦連敗の意味を探るなかで、ヨーロッパでは、アラビア語に翻訳されていた古代ギリシャの哲学と科学の圧倒的な遺産を摂取しなければならないという「大翻訳運動」が起きる。これがパリやオックスフォードの大学の土台になって行く。 
 時間が、人間の心の機構が形象喚起的に作り出したものに過ぎないならば、そのとき「行なわれた」創造もまた形象喚起的に作り出した事態に過ぎないことは明々白々な論理である。一言でいえば、神も、そういうふうにできている人間の心の機構の産物である。――と、これほど簡単な理屈に、<時間はわれわれの認識の形式そのもの>であると見抜きえたガザーリーたちが、どうして行き着かなかったのだろう。物理学的世界像をまだ手に入れていなかった時代、数千年間彼らを浸し続けてきた圧倒的な「恐怖の神」のイマージュは、物理学的世界像を入手済みの「はず」の我々が、まったくの闇夜の墓場に立ったときに「思考をとめられてしまう相手」そのものであったに違いない。