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TVから 「ファーブル昆虫記」

 ファーブル『昆虫記』に、獲物を仮死状態に置いたまま長時間巣穴に保存し、その上に卵を産んで、孵化した幼虫にその仮死状態の(つまり肉が新鮮なままの)獲物を食べさせる「狩りバチ」のことが載っているらしい。親バチは狩りのとき、獲物の運動神経が一箇所に集まったところに針を刺し、一撃で倒すのだが、孵化した幼虫は幼虫で、仮死状態の獲物をただ食うだけではなく、一度には食べられないから、できるだけ長く生きたまま保てるように、生命維持に欠かせない部分は最後に食べるそうである。
 直径二ミリの急所を一撃で刺す技術、獲物の生命維持部分を最後まで残す知恵はどのようにしてハチは獲得するのだろう。いつ獲得したのかということではない。「獲得」とは何なのかということだ。
 養老孟司氏『唯脳論』によるまでもなく、原始的な運動系は、おそらく反射だけで成立している。ここでは(例えば熱いものに触れたときのように)知覚入力がただちに運動出力に結合する。その間にさまざまな「余分」が介入することによって、中枢神経系が成立する。そうした「余分」はまず運動の精緻さとして現れる。「狩りバチ」のように、ごく小さな脳しか持たない動物が精緻な運動を行えるということは、この「余分」が、ステップ数の少ない専用プログラムとして脳内に括り付けられていることが考えられる。(『唯脳論』p223付近)
 昆虫も人間と同じく、生きることだけが要請されている。獲物を仮死保存するというような目的を持っていなかったとき、ただやみくもな反射運動を繰り返していたとき、気まぐれなやみくも運動が、生命に好都合な結果を生むことがある。「狩りバチ」は全くの無意識のなかでそのことを「記憶」する。記憶は括り付けのプログラムとして中枢に蓄積され、次第に形質として「獲得」されていく・・・。
 このプログラムは「無意識&専用&括り付け」であることが肝要である。そうであれば獲物が射程内にあるだけで、ごく小さな脳しか持たなくても身体は自動的に精緻に動くからである。プログラムが汎用であり、容量が大きいと他からの介入を許し、身体は精緻に動かなくなる。ヒトが自分の動きを「意識」すると途端にぎこちなくなるのは、日常の経験だ。