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マックス・ウェーバー 「宗教社会学論文集 序言」

 p73

 営利衝動や利潤追求の努力は、給仕、医者から賭博者、売春婦までいたるところにあるし、資本主義とは全く関係がない。掠奪利潤に近い、放縦極まりない営利欲はいかなる意味においても資本主義とは同じものではないし、いわんやその「精神」では全くない。むしろ資本主義は、こういう非合理的衝動を抑制すること、少なくとも調整することと一致し「得る」。(ブレンターノ、ジンメルゾンバルト等はやや意見を異にするらしい。)
 p78

 近代西欧固有の資本主義を本質的に規定しているものは、なによりもまず、技術的な可測性、それも正確な計算に立脚した可測性である。このことは、とりわけ数学と実験により精密に基礎づけられた自然科学によって規定されているということである。

 桁数を使う数の制度は西欧資本主義の発展に貢献したが、これを発明したのはインド人である。しかしそのインドにおいては(微積分のような)いかなる近代的数学も創りだされなかった。利害関心は西欧でもインドでもシナでもあまり異なるところはない。しかしなぜインドやシナでは、科学、芸術、国家、経済の発展が西欧特有の「合理化」の道に踏み入らなかったのだろうか。

 「合理的」とはいうまでもなく「理」に「合」っているということである。それは話の「筋道」に矛盾がないということであって、話のもともとが正しいかどうかは問わない。話の前提が多少おかしくてもそれには目を瞑り、その後の論理展開に揺れ動きがなければそれは「合理的」と見なされる。だからトマス・アクイナスの形而上学は「合理哲学」と呼ばれた。
 数学でいえば「定義」であるものを「公理」とみなせば、そのあとでいくつもの「定理」を導き出すのは簡単だ。アウグスティヌスからロジャー・ベーコンまで、西欧は安心して単なる「定義」を「公理」と見なすことができたから、彼らはその後の論理展開だけを磨けばよかった。
 キリスト教が生まれる数千年前に哲学上の「梵」(ブラフマン)を「発見」していたインドや、古代仏教を根底から理解したチベット、シナにおいては事情はそう容易ではなかった。井筒俊彦氏によれば、ブラフマンと存在世界は、人格一神教の思想体系における神と被造物ような二項対立にあるのではない。宇宙の総量がブラフマンなのであり、ブラフマンに対して「他のもの」は存在しない。したがって存在世界としての私たちが作り出す「定義」は本来分節できないブラフマンを「分節」しようとする無謀な試みであって、ブラフマンはそのような定義や公理によって示されるものではない。
 <定義→公理→定理→実証>というのは西欧だけがなしえた科学進歩の直線経路だが、インドやシナでは最初の出発点において「進歩」に疑問符が打たれてしまっていた。