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マックス・ウェーバー 「宗教的現世拒否の段階と方向の理論」

 p159
 合理的なるもの――知的・理論的ないし実際的・倫理的態度決定に際して、論理的または目的論的な「一貫性」を持っているもの。推論の道筋が「一貫性」を持っていることだけが問われるのであって、推論の前提にアプリオリなことがらが措定されているかどうかは問わない。したがってこの世界ではアリストテレスの「質料」・「形相」概念もきわめて合理的である。アプリオリなことがらを排除しようとする近代科学の「合理的」とはずいぶん異なる。
 p162
 老子にみるとおり、神秘家の典型的な態度とは独特に砕かれた恭順の態度であり、行為の極小化である。つまり神秘家は、現世内での自分の行為と敵対して、自分を証明する。これと正反対に、(ピューリタンのような)現世内的禁欲者は、行為を通して自分を証明する。現世内的禁欲者からすれば神秘家の態度は怠惰な自己満足に過ぎないが、神秘家からすれば現世内的禁欲者は、神とはほど遠い世俗の営みにひとりいい気になって巻き込まれているようなものである。
 p166−8
 宗教的友愛が徹底して貫かれれば貫かれるほど、それは現世の諸秩序、現世の諸価値と烈しくぶつかりあう。その軋轢は経済の領域でいちばんよく目に付く。この緊張から原理的・内面的に逃れる方法の一つがピューリタン的職業倫理のパラドックスである。これは達人的宗教意識としての愛の普遍主義を放棄し、現世の活動はすべて神の意志――究極の意味はまことにうかがい知れないけれどもともかく認めうる唯一の確実な意志――への奉仕であるとして、現世の活動を合理的に物化してしまうものであった。
 ピューリタン的職業倫理は物化した経済世界――他の世界と同じく被造物的に堕落して価値の低まった経済世界――をも、神の欲し給うた世界であり、義務遂行のための条件であるとして受け入れたのである。 
 p185 
 救済宗教は、世界の意味の解明は悟性を介してなされるのではなく、開眼のカリスマの力によってなされ、しかも誰もが開眼できるわけではないという。従って、自分の神秘な体験を認識として正確に伝達したり論証することはできない、と。ところが、現世に働きかけようという救済宗教の企図が宣伝の性質を帯びてくると、救済宗教はいつもあの伝達や論証をやらねばならぬ窮地に追い込まれる。
 p186
 苦の普遍的分布という事実にとってかわりうるものは、罪のはじまりというもっと理に合わぬ別の問題以外にはない。罪を犯すためにつくられている世界は、苦の宣告を受けている世界よりもさらに未完成に見えるはずである。救済を求めるものにとって、現世はかくしてますます価値を切り下げていく。
 p190 
 慈しみにせよ怒りにせよ、神の御心は人間のものさしでは計り知れない、という予定説の意味は、人間による世界の意味の理解可能性を冷ややかな明快さで放棄することである。資本主義黎明期の企業家達は、だから安心して仕事の精出すことができた。