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マックス・ウェーバー 「世界宗教の経済倫理 序説」

 p121
 幸福な者は、自分が幸福であることを正当化する理由が必要である。かれは、幸福であるに値すること、特に他の人々に比べて値するものである、という確証を求めようとする。またかれは、自分より幸福であってほしくない者が自分と同じ幸福を持っていないのは、やはりそのものにふさわしいことにすぎないのだ、ということを信じたくなる。
 もしひとが、幸福という一般的な語句をもちいて、名誉・権力・財産・快楽などのあらゆる財貨を意味させるとすれば、それは宗教がすべての支配者・資産家・勝者・健康者、つまり幸福な人々の外的・内的な利害関心についてなしとげねばならなかった、正当化という任務の一般的な定式、すなわち、幸福の弁神論にほかならない。
 p128
 どの規模の宗教についても言えることだが、わずかな宗教的達人が請い願った「現世外的な救済財」さえ、徹頭徹尾に彼岸的なものであったわけではない。人々にとって第一義的な関心事であったのは、まさしく現在時点における、此岸的な「心的状態」の救いだったのである。恩寵・法悦・苦行・神との神秘的合一、等々すべてはその状態そのものが直接に信徒に与える情緒的価値のゆえに所望されたのであった。
 p130
 人間の行為を直接に支配しているのは、物質的ならびに観念的な利害であって、知識人が彼らの層の特性として持つ「理念」ではない。それにもかかわらず、「理念」によって繰り出された世界像は、きわめて頻繁に、転撤手として軌道の方向を決定し、その軌道に沿って利害のダイナミズムが人間の行為をおしすすめて来たのであった。つまり知識人層の世界像があることによってひとは、どこから、何によって、救われようと願うのか、ほんとうに救済されるものなのか、という一貫した認識を構築しうるのであった。
 p141
 禁欲的プロテスタンティズムにとっては、「現世」そのものは、被造物的であるとともに罪の容器にすぎないものとして、宗教的にはいよいよ価値を失い拒否されるにしても、心理的にはそれだからこそかえって、現世において、召命としてあたえられた神のための「職業」をつうじて、神の欲したまう活動を行なう舞台として、いっそう現世が肯定されることになった。
 こうした現世内的禁欲主義は、品位とか美とか、世俗的なものにとどまる権力とかの諸財を、神の国と競合しあうものとして軽蔑したと言う意味では、まさしく現世拒否的であった。だがしかし、ほかならぬこのことゆえに、瞑想のように遁世的になることなく、したがって古代人やカトリック平信徒の場合に見られるような無垢な現世肯定に比べれば、はるかに透徹した特殊な意味において、現世志向的なものであり続けた。ありのままの日常の営みそのものではなく、神に奉仕するために方法的に組織化され、その結果「召命としての職業」にまで高められた日常活動こそが救いの確証になったのである。