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オルハン・パムク 「わたしの名は紅」1

 西洋絵画の遠近法を取り入れることをめぐる、十六世紀トルコの宮廷細密画師たちの暗闘の話。密告と中傷と惨い殺人劇に肌が粟立つ。欠陥を見出せないストーリー、大小の挿話を鈍く深く光らせながら衒学に陥らない作者の驚くべき博識・・・『紅』はパムクが描いた言葉の細密画である。
 p18
 殺された細密画師の“優美”が<こちら側>に来てしまったことが耐え難いと語る。「<あちら側>では幸せだった。どんなに幸せだったことだろう。細密画の工房で一番いい仕事はいつもわたしが手がけていた。スルタンにご覧いただく芸の上でわたしに近いものすらいなかった。わたしは登りつめたとき殺されたのだ。」
 『雪』のイペッキとKaの深いやりとりを思わせる迷宮のような会話が続く。五十ページまで行くとプロットは濁った謎を見せ始めて、物語の細密画にすこしずつ色が塗られていく。
 パムクの創る物語は重層的で、三分の一を読んでも話の終わりは想像できない。人物は全員が嘘つきである。嘘つきが嘘つきと「これは本当のような話だけど・・・」というような会話をする。亭主に死んでいてほしいと願う女主人公が、読者に向って「私の夢の話をまじめに取っておられるのですか」と言って惑わせる。
 主人公カラが恋するシェキレも『雪』のイペッキのように美貌であるが、テロリストと密かに心を通わせ、『雪』の最後でKa暗殺の指示を出した(かもしれない)イペッキほどに謎ではない。『紅』の二年後に『雪』が書かれたが、その間に主人公はより弱くあいまいになり、そのぶん女主人公は世界としての謎を深くしたのだろう。二十世紀のイペッキはパンを切るときだけ無作法な田舎くささを見せるが、子供におかあちゃんと呼ばせるシェキレはただ美しい、心が二つあることを隠す必要もない十六世紀のトルコ女である。
 縦糸として絵画における伝統、型、規範と革新、個性、スタイルの確執が六百ページにわたって書かれ、争う画師たちの殺人事件と犯人探しのための容疑者の拷問が、読む人の目をくらまし続ける横糸となる。

 p51
 西洋画の名人たちは人間を(イスラムのように)服装や勲章によってではなくその顔の様相で識別できる描き方を見出したのだ。それが肖像画の真髄だ。その顔は生きているかのようであり、見る人は誰も決してその人物を忘れることができない。
 p250
 西洋の遠近法で描いた人間の顔を見たトルコの高官たちは、絵ではなく本物を見たと思った。あたかも西洋人ように絵を拝したくなった者もあるそうだ。西洋の遠近法はアラーの視点を、道にいる乞食のような人間の視点に下げたのではないだろうか。創造はアラーの属性であることを忘れてはならない。生きていないものに生命を与えるのはアラーである。アラーのように創造できると考えるのは最も罪深いことである。