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ヤロスラフ・ハシェク 「兵士シュヴェイクの冒険」 2

 オーストリアハンガリー帝国内では、例えばチェコの兵卒はハンガリー人やセルビア人に対して、女子供を銃剣で串刺しするようなことをやっている。街中でもハンガリー人やセルビア人を見つければ喧嘩を吹っかけ殴り殺してしまう。話の舞台である第一次大戦中でそうだったのだから、それ以前の数世紀では被害者が逆のこともきっと頻発していた。
 国家上層の人間は戦略も戦術もデタラメで、戦地への時間どおりの列車手配ひとつまともにできなかった。彼らは私腹の太り具合と王家同士の政略しか考えていなかったから、民衆の喧嘩は野良犬の殺し合いとして放置していた。野良犬は野良犬で、上層の人間を弱い下層階級を搾り取るだけのライオンと見て、自分たちとは違う生き物に考えていたから、面従腹背こそが民衆の倫理だった。
 バルカン諸国の憎悪感情は宗教・宗派の対立に起因するだけではない。第一次大戦はいまから三世代前のことだから、曽祖父の時代に無軌道な殺し合いを経験すれば、昔の敵味方がいま街ですれ違えば、互いに暗い衝動が起きても自然なことだ。敵味方とも、父と母は夕食時になると知り合いから聞かされた虐殺話も加えて悲劇を増幅し、子供たちに伝えてきたのだ。
 その親子の話には当然、女子供を十人も刺し殺したジプシーや、司令部の食い物と金をくすね続けるユダヤ兵のことも入っていたし、階級社会の野良犬とライオンのことも入っていただろう。卑劣な上位国家・上流階級への当てこすり、からかいだけでなく、こうした民衆同士の喧嘩、罵詈雑言も拾わなくては、今日のバルカン国家の不安定さと衝突の由来は何もわからない。
『兵士シュベイクの冒険』は作者ハシェクの病死によって第四巻の途中で終わる。突然の結末はしかし、この作品の質にほとんど影響を与えていないだろう。
 全四巻の中で一貫して登場した人物は、シュベイクをのぞくとルカーシ中尉一人だけだった。ハシェクはシュベイクの戦争冒険談を長々としゃべろうとしたわけではないので、主人公と他の人物の戦友というたぐいの湿った人間関係はまったく無視している。十以上の東欧民族を支配下に置いたハプスブルク帝国内において、知恵者の民衆が出世欲に身をやつす将校をキリキリ舞いさせる抱腹絶倒の抵抗物語を書いたのだから。
 ハシェクは主人公シュベイクを知的にしたような、とても一筋縄では行かない(ノンセクトラジカルの)人間だったらしい。ギリシアロシア正教カトリックプロテスタントイスラムユダヤが、個人と地域社会と国家の三次元交叉点を十文字になって行き交えば、敵の敵は味方などというおとぎ話は小学生にすらあっさりと縄抜けされてしまう世界である。