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伊井直行 「ポケットの中のレワニワ」

 上巻四分の三あたりから、ハケン、いじめ、落ちこぼれ、在日外国人難民、低賃金、ネット、新興宗教などが多角形の頂点になって、暗い物語がじわりと始まる。それぞれの頂点には鋭い刃物が潜んでいるわけではないが、鮫の肌に触れると血がにじむような痛みがある。これから下巻にかけて、それぞれの頂点が何分の一かずつ縺れ合って、十九世紀型の「深みのある小説」とは縁遠い、川上未映子『ヘヴン』の間口を少し広げたような、出口のない争いを広げてゆくだろう。巻末でも作者は登場人物たちの明快な断面を示したりはしないだろう。だからと言って「平安の昔から世界は常に末法であった」などと、読者をほの暗いところに置き去りにしてほしくはないが。
 読了してみると、世界は常に末法の世ではあるが、それを嘆く話ではなかった。出口はないが、出口を探そうとする物語でもない。社会の悪は、底辺の人の暴力となって一度か二度出てくるが、それは(ヒトのゲノムで規定されてしまった)社会の構造として、善意もなく悪意もなく一瞥される程度である。寓意の動物「レワニワ」は大した役回りを振られているわけではない。
 ではどこが面白いんだということになるが、複雑な多角形の頂点のすべてにからまれるアガタとティアンの恋のせつなさに胸がざわつく、という単純なことに落ち着くのだろうか。ただし文章はうまく、テンポのよさが作家の実力を示している。