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中村文則 「掏摸」

 スリの犯行シーンはなかなかどきどきした。へえ、こんな方法があるんだと、面白い犯罪映画を見るようで何度も感心した。
 が、作者は読書範囲の狭い二流作家である。『塔』が何度も出てきて、それは「あらゆるものに背を向けようとする少年時の作者を否定も肯定もすることのない」世界の象徴であるという。しかしこの場合、作者が日本語の一文字ずつでカタチを創りあげて行こうとする『塔』は、ただ散文的で暗喩の豊かさに乏しく、読者には作者が示したい意味がよく感得できない。「象徴」は読者と共有できる暗喩で十重二十重にくるまれていなければ、ただのひとりよがりである。作者が劫火に落ちるバビロンの塔のイメージを伝えたつもりでも、読者が子供のとき雷が落ちた送電塔を想像しては、作者の思いは浮ばれまい。これは読者をイラつかせることでもある。「運命」も何度も語られるが、作者の言う「運命」は中世の制度キリスト教もしくは道学者先生の運命論そのままではないかと疑うほど素朴である。
 百四十ページの本作中で重要な台詞らしい「上位にいる人間の些細なことが、下位の人間の致命傷になる。それが世界の構造だ。」は当たり前すぎて、小説家として恥ずかしいのではないのか。お茶うけに京都千本今出川/越後屋多齢堂の一本五千円のカステラを期待していたら、文明堂のまがい物をニコニコと出された気分である。このレベルで日本では数多くの文学賞を獲得できる。新作を探すため、ここ三年習慣にしている年末の毎日新聞「今年の3冊」をたよりするのは考え物だ。