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ウィリアム・ジェイムズ 「宗教的経験の諸相」 1

 p26-31
 宗教的用語と私たちの生活用語は基本的には同じ言葉である。だから生きた真理の啓示として独自な価値を持つ宗教現象に対しても、私たちは、脾臓や肺や腎臓や性欲の疾患あるいは昂進が原因だとする、まことにみすぼらしい象徴しか供給できないことがある。
 (たとえば聖テレサをヒステリー患者だとする)医学的唯物論には、そのような精神状態がいかにして生じるかを説く生理学理論の基礎がない。このことは、医学的唯物論は自分の嫌いな精神状態を単に貶めようとしているだけであって、それ自身が「唯物論を作り出す脳の一部の異常昂進である」と揶揄されても仕方がない。
 p33
 人生には情緒的で神秘的な体験をする瞬間があるが、それはまれにしか来ないし、誰にでも訪れるというものでもない。またそのような場合に聞こえる瞬間の声に従う人もいれば、普通の人生経験の導きに従うことを好む人もいる。人間の精神的判断に、じつにしばしば、悲しむべき不和が起こるのも、それがためである。
 p52
 宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを悟る場合にだけ生ずる感情、行為、経験である。とすれば「神とは宇宙のあり方のことである」とする 私はほとんど宗教とは無縁の人間である。「自分が関係している」を「自分が包摂されている」と解釈できれば、私は有縁であるかもしれない。
 神は存在と力において第一のものであると考えられているが、「宇宙のあり方」は存在ではないし力でもない。宇宙が記述者自身が説明できない数式によって描かれるときが来るかもしれないが、それは辞書のことばで理解可能なものではないだろう。ことばは、数式でしか表わせないものを表現するには、まったく能力が足りない。
 たとえば単なる自然数の逆数の累乗を足すと、突然円周率パイが出てくる式がある。n:自然数とすれば 1+1/4+1/9+1/16+1/25+1/36・・・+(1/nの二乗)=πの二乗/6 という有名なオイラーの式だ。しかし円周率の二乗を6で割った数というのは、どんな実在的意味があるのだろう。

 p88
 鉄の棒は自分を刺激する磁力についてわれわれに説明することはできないが、磁力が自分に持つ意義についてはしみじみと感じているだろう。鉄の棒にとって磁力とは、人間にとっての「神」や「ありかた」のような高度の抽象物のことである。
 人間が抽象観念に規定されているということは、人間の本質の根本的な事実の一つである。抽象観念は人間には実在的な存在なのであって、感覚的事物が実在的であるのと同じである。意識の流れにこだわりを見せた夏目漱石も『一夜』という短編の中で、男に「ホトトギスの声は胸がすくようだが、惚れたら胸はつかえるだろう。思う人には逢わぬがましだろう」と世間なみのことを言わせ、隣の美しい女に「しかし鉄片が磁石に逢うて、きりきり舞うたら?」と即妙に答えさせて、(鉄片のように感じやすい)ある種の人間にとっては磁力が「神」のように高度な抽象物になりうることを美しく書いている。
 p91
 「なにかが現前している」という「感じ」は非常に未分化な感覚だが根源的なものである。幻覚はその奇妙な証拠であり、幻覚が確かに存在する以上、宗教的な諸概念はいかなる批判をも斥けて、これからも信じられ続けるだろう。