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ウィリアム・ジェイムズ 「宗教的経験の諸相」 3

 下巻p13
 人間の性格とは知性とは違ったものであって、性格の個人差の原因は主として情緒的刺激に対する感受性の相違、およびそこから生ずる衝動と抑制の相違にある。
 p73
 人類愛の一分枝である民主主義の要諦は「貧困の崇拝」である。
 たしかに、民主主義者のツールになっている「ゼロ円」ケータイや一○○ドルパソコンの浸透はサラリーマンの給与低下=貧困化と深く関係している。通信事業業界の強大化=メーカー業界の給与低下とも深く関係している。インターネットによる「民主主義」の幼児化=要求される説明責任事項の低レベル化、説明されたことを理解する脳力の低下とも深く関係している。民主主義の要諦は「低脳の崇拝」だとも言える。
 p108
 人類愛は、自分の全財産を最後の一ペニーまで貧者に与えられるかという冷酷な論理に行き当たる。いっぽう民主主義は、キリスト教国でよりもイスラム社会でより普及した「神の前では被造物すべてが平等である」という感情だが、これによればすべての人はどんな卑しい者とも同格で神の面前に平伏しなければならない。労働者は貧困だが神の面前でその数は圧倒的である。したがって少なくとも神の国を地上に作ろうとするイスラムの民衆政治においては、貧困は侮蔑の対象ではなく、富者こそが略奪の過去を暴露されなくてはならない。
 p117−9
 いかなる宗教も、その時代の人間の立場から見て不適当なものを排除し人間に適したものが生き延びる、という原則が信仰にも適用されたものにほかならない。わたしたちが歴史を率直に、偏見なしに眺めるならば、結局いかなる宗教もこれ以外の方法で確立されたことも維持されたこともないことを、わたしたちは認めざるをえない。
 これは一切のドグマを拒絶する懐疑論ではない。自分の考えがいつか是正されることがありうることを認めることと、気まぐれな懐疑の大海に乗り出し自らを見失うこととは、おのずから違っている。
 もろもろの宗教はみな自己(という人間の全生活)を証してきたのだ。きわめて重大なさまざまの生活上の要求に奉仕してきたのである。一つの宗教がもろもろの要求をあまりにひどく侵害した場合は、その宗教は取って代わられたのである。(イデオロギーの言う)「必然的確実性」のおかげで流布したなどという宗教は未だかつてない。
 p127
 教会精神とは団体的支配の精神+絶対完結の理論体系のことである。スターリン体制は教会精神そのままである。
 p130
 霊的興奮は、他の関心が少なすぎたり知性が狭すぎたりする場合にはいつでも、病的な形を帯びてくる。開祖や聖徒の逸話の数々は、彼らへの尊崇の念から作られたものではあるが、没趣味で馬鹿馬鹿しいだけのもので、人間の持つ称賛せずにはいられない性癖が(他への関心と広い知性を迂回したために)間違った方向に現れた痛々しい表現に他ならない。愚かしいダビデのごとき人は、自分の敵とエホバの敵との間になんら差異を認めなかった。
 p139
 カトリックの聖女テレサは第一流の文章家であるが、その文体は騒々しい。彼女は、その救い主から前例がないほどの個人的な愛顧と恩寵を受けたというだけでは足りないで、そのことをただちに筆にし、自分ほど特権に恵まれていない人々に訓戒をたれずにはいられない。彼女の口達者な自己吹聴癖には根源的な罪人の意識がない。いくつかの欠点や不完全さを持っているに過ぎないという意識、神の不思議な偏愛が示されるごとに「どぎまぎする」という紋切り型の謙虚さ・・・あれほど生活力のある魂があのように貧しいことに使われたのは何と気の毒なことだろう。