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ハナ・アーレント 「人間の条件」 2

 p105
 愛や徳を見られ聞かれることから隠れようとするナザレ人イエスの直接の教えにあっては、善行は、それが知られ公になった途端、ただ善のためになされるという善の特殊な性格を失う。だから教会という公的機関がその役割を引き受けたとき、善はもはや善ではなく、自ら腐敗しその腐臭をいたるところに撒き散らすであろう。イエスにおいては「ただひとり神を除いて善なるものはない」。
 この教えは世界は滅亡するという信仰とはまったく別物である。終末論的期待が明らかに実現しなかったにもかかわらず、キリスト教が依然として存続している理由はここにあるだろう。
 p137
 古代ギリシャ人とって、自分のためでなく生命の必要物を提供するために営まれる職業は、奴隷が行うべき『卑しい』労働と同じものと見られた。自由は奴隷を支配することによってのみ得られるものであり、奴隷への転落は死よりも悪かった。
 自由と名誉が個人の生命よりもはるかに重かったとき、生命を死に近づける拷問などは残酷でもなんでもなかったろう。近代国民国家が生まれるまではそうだった。どんな理由でこれが逆転したのだろう。
 古代の奴隷制は安い労働力を手に入れるための仕組みだったのではない。自由な市民生活の条件から、動物生活と共通要素の多い労働を取り除こうとする試みだったのだ。
 p161
 マルクスの基本的な矛盾は、言われるような「歴史家の科学的観点と預言者の道徳的観点の間」にあるのではない。マルクスが人間を“労働する動物”と定義付けておきながら、革命によって労働という最も人間的で最大の力をもはや必要としない社会に導こうとしていることこそ、最大の矛盾ではないのか。
 p164
 旧約聖書の、自然の定められた循環の中にとどまり、労働し、休み、消費した族長たちの物語の中では、地上における個人の不死も、魂は永遠であるという確信も必要とされなかった。死は、歳月に満ちたよき老年の彼らに、親しみやすい夜のように、長い休息として訪れるのである。
 p176
 労働の生産物は(たとえば観念の製作物である芸術品のようには)世界の一部分になるほど十分長く世界にとどまっていない。「労働する動物」は生命の維持に専念せねばならず、誰とも共有できないし、誰にも完全に伝達できない欲求を実現しようとしてもがいている。・・・大衆社会の避けられないヒステリーと孤独の根源。モッブの細胞増殖に適した環境。
 p179
 労働の苦痛と努力を完全に取り除くことは、人間的な活力と生命力を奪うことになるだろう。苦痛と努力は取り去ればいい単なる症候ではなく、これが人間の条件なのである。死すべき人間にとって、「神々の安楽な生活」は、むしろ生なき生活であろう。(p192)労働を人間から解放し最大多数の幸福を実現するという近代社会の理想は、実現された途端に愚者の楽園になる。
 p189
 私たちが何をしようとそれはすべて「生計を立てる」ためにしていると考えられている。それが社会の判断である。社会が受け入れている唯一の例外は芸術家だが、「生計を立てる」観点からすれば芸術家の仕事はテニスや趣味といった遊びに中に溶けてしまっており、魂の住家としての安定や固さという本来の世界的(worldly)意味は失われている。
 p191
 大衆という「労働する動物」が社会を占拠したことと、暴力を含む活動力が不人気になったことは軌を一にしている。あたかも近代になって暴力がだんだん取り除かれるようになった代わりに労働という戸口が自動的に開かれたかのようである。拷問は古代西洋の奴隷にとって「誰にも持ちこたえられない必然」だったが、労働は生計維持のために誰にも避けられない必然である。
 p195
 マルクスもそれに拠った(産業革命と進化論を背景とする)機械主義的な哲学は、ひとのエネルギーは労苦の中で消耗しさせられなければ自動的に他の活動力に生かされるとした。マルクス以後百年たってみて、私たちはこの推論が誤っていたことを知っている。「労働する動物」の余暇時間は消費以外には使用されず、時間が余ればあまるほど渇望的になってその消費は生命にとって必要物の範囲をはるかに超えるのである。
 p237
 人間の条件は、人間が条件付けられた存在であるという点にある。
 p242
 道具は最も精巧なものでさえ手の召使にとどまるが、機械による自動的な製造過程は、世界の物は有用性か美か、いずれにせよ人間的標準にしたがって作られているという重要な仮定を打ち砕いた。いま世界の物は機械の作業能力に合わせて設計されているが、これは手段=目的カテゴリーの完全な転倒である。
 いまや「技術」は人間の唯一の能力であるとみなされるようになってきた。環境と人間は技術のみを通じて相互作用すると考えられるようになったのだ。
 p246
 当時の功利主義哲学者がレッシングににたずねられ全く答えられなかった問い。「ところで効用の効用とは何なのか?」
 p257
 マルクスの有名な自己疎外=人間が、労働「力」という商品に堕落することがある。
 労働社会では人間労働がどんな材料や物質よりも価値あるものに思われることがあるが、しかしそれはもっとはるかに価値あるもの、機械が円滑に機能することを前提としているにすぎない。
 p265
 芸術作品の中にこそ、不死性――魂や生命の不死ではなく、死すべき人間の手によって達成されたある不死なるものの不死性――が触知可能なものとしてに現れる。
 p301
 アダム・スミスの「見えざる手」は、交換には純粋に経済的な活動力以上のものが関与していることの表明だが、その「手」とは人間関係の総体のことであり、人知では触れられないWEBのことである。つまり世界の「リアリティのありかた」のことであり、それは「作られた」のではないから、その部品として動いている人間に全体像はつかめない。「部品」である脳細胞に人間の全体像がつかめないのと同様である。