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ハナ・アーレント 「人間の条件」 3

p304−8
 政治とは、人間関係の網の目を取り結び、すべての布置を変える(言葉を含む)行為のすべてを指す。
 p310
 ある歴史過程は、ようやくその過程が終わったときのみに明らかにされ、場合によっては参加者全員が死んだあとでしか明らかにされない。少なくとも活動者が活動中であり活動の結果に捉われている場合は必ず活動者から隠されている。そうでなければそれは定義上歴史ではない。活動結果が予言できる事象はたんに彼の周辺の網の目の一部を全体と錯覚しているにすぎない。つまり、歴史は予言が不可能であり、可逆性がなく、参加者は匿名である。
 p313
 唯一最高の活動を終えてそれ以上長生きしない(たとえばアキレウスのような人だけが)自らのアイデンティティの主人公となり、偉大になった。このように理解された活動こそ、他人と競って自己を示そうとする古代ギリシアの活動の原型である。(西洋人一般の行動規範としては現在にも通用するだろう。)
 p316
 アリストテレスによれば喜捨する人が施しを受ける人を愛しているのであって、その逆ではない。なぜなら喜捨する人は喜んで行為を為したのであり、施しを受ける人はその施しに耐えたに過ぎないからである。
 p318
 ポリスで共生している人々の生活は、言論と行動という人間の活動力の中でもっとも空虚なものを不滅にし、詩人たちの叙事詩という助けを受けることなく自分たちの行為を永遠に記憶にとどめ、現在と将来にわたって賞賛を呼び覚ますためのものであった。もしポリスがなければ、市民たちは活動者の言論と行動が行われている短い時間だけそこに居合わせるだけであり、もはやそこにいない人々と出会うためにはホメロスたちの物語を必要としただろう。
(p321)ポリスは一定の場所を占める「都市国家」ではなく、共に活動し共に語り合う人々の「組織」である。したがって人間の手の仕事が作り上げる空間と違い、この空間を生み出している運動が続いている間しか存続しない。偉大な文明が外的な破局なしに衰退することがあるのはこのためである。
 p331
 古代ギリシアでは生きた行為と語られる言葉こそ、人間が到達できる最高の地点であった。アリストテレスの「現存性」という観念は、目的を追わず、作品を残すことなく、(政治においてのように)ただ行為そのもののうちに完全な意味を求めている。政治の中心問題は、政治がいかに「現存する人間としてのすぐれた作品」となっているかどうかに他ならない。なぜなら人間はこの「現存性」以上の高みには到達できないからである。
(現存性=行為そのもののうちの完全さとは「ソクラテス」のことだろうが、近代の実存主義はその孫なのだろうか。)
 p363
 基礎研究とは、私が何を行っているのか知らない事柄を行っている研究のことである。
 p385
 自然の観点から見ると、生から死まで個人の活動が描く直線運動は、種としての生命が描く循環運動からの特殊な逸脱であるかのように見える。自然科学の言葉で言えばそれは「正規に起こる無限の非蓋然性」である。
 p419
 ガリレオが哲学的思弁でなく望遠鏡を使って、地球の実際の運動を「感覚的知覚の確実さをもって」人間に認めさせたのは、「魂の安全な住家が、動かしようもない絶望の固い地盤の上に建てられている」ことだった。
 p420
 宇宙の属性とその測定装置につながりがあるにしても、関連の程度は、電話番号と電話加入者につながりがあるのと同じ程度である。
ハイゼンベルク不確定性原理のなかで、不確定な人間はただ自分自身に向き合っている。
 p433
 我々が宇宙的、すなわち我々の太陽系を超えて有効な視点を手に入れたとき、現存する宗教の語彙と隠喩の内容は著しく変わるだろうが、信仰の地帯である未知なるものは廃止もしなければ取り除かれもせず、移動することさえないだろう。人間の条件として、未知なるものへの恐れと不安は、視点の空間的変化によってなくなるようなものではない。
 p441−50
 ガリレオが望遠鏡をのぞいたことによるさまざまの発見は、根源的で宇宙的意味を持つ懐疑をデカルトにもたらした。太陽がめぐるという目に見えることがリアリティの証拠にならないことは、人間の悟性が理解できるというだけでは真理の論証にはならないことを明らかにしたからである。
 それは「確実性」ということを多くの領域で疑わせ始めた。宗教で直接失われたのは救済や来世に対する信仰ではなく、「救済の確かさ」であった。そして真理の確かさが失われた結果、2+2=4という神も変えようのない事実を誠実に延長しようとする「論理の誠実さ」への熱狂が生まれた。これはやがてすべての現実的関係を数学的パターンという人工的シンボル間の論理関係に置換した。アルキメデスの点を脳内に取り込んで自らの地球拘束性を離脱しようとする近代科学の基本潮流の始まりである。
 p454
 この数学的パターンにたいしてはどんなモデルも有効ではない。モデルというものは人間の三次元感覚の経験に倣って作られなければならないからだ。したがって自らの地球拘束性を離脱しようとする意図は、どこまで行っても感覚的理解を得られず、リアリティを獲得できない。
 p455
 数学的パターンの宇宙はもちろん物質的な宇宙であるが、それは非物質的な「魂」にも似て、イメージをまったく描けない想像不可能なものとなる。古代と中世の真理の「確か」さが失われたことは「確か」だが、問題の困難はほとんど解消されていない。(E=mC2でいえば、Cの二乗は想像困難である。数学上は両辺を二乗してE2=m2C4も真であるが、こうなると言葉もない。)
 p489−95
 近代、思惟に代わって人間能力の最高位に昇格したのがほかならぬ労働の活動力であったのはなぜか。他の言い方をすれば、生命が近代社会の最高善にとどまっている理由は何なのか。
 古代、最高善は不死の世界であり、その永遠の世界から与えられる名誉であった。キリスト教が古代世界に侵入したとき、人間の個の生命の不死を説く福音が人間と世界の間の関係を転倒させた。この福音は自分たちの世界が破滅の運命にあることを知っていた人たちに予期しない希望を与えた。
 以来、生命の神聖さに対するキリスト教社会の基本的信仰は、キリスト教信仰の世俗化と一般的衰退にもかかわらず、微動だにせず残っている。ガリレオの実験とデカルトの内省に始まる近代の懐疑哲学もこれには挑戦しなかった。彼らもキリスト教徒であり、生命の優越は自明の理であったからである。
 しかし、キリスト教に先立つヘブライの旧約では殺人の罪は他の、私たちにすれば比べ物にならないくらい軽い罪と同列に扱われている。現在でも埋葬が許されない自殺は、旧約では重荷になった生命を逃れる高貴なふるまいですらあった。
 p501
 分子の「自由」なふるまいを支配する法則は、人間行動を支配する統計的法則とも同じものである。