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加藤周一 「羊の歌」

 p118
 東大・駒場の寮歌に「栄華の巷低く見て」という有名な一節がある。1930年代末の東京の街は決して栄華の巷ではなかったが、歌の文句の要点は栄華そのものにあったのではなく、そもそも街とそこに住む人々を低く見ることにあった。
 駒場の寮では平等な学生の自治という「大正民主主義」がよく生きていたが、その小集団の内側での平等は、天下国家はやがて自分たちに属すべきという、より大きな社会の中での不平等を前提として成り立っていた。
 p120
 盛り上がる一高・三高対抗戦に際して、各運動部の主将は「・・・部は必ず勝つ」と寮生と応援団に誓いを立てた。試合は相手のあることなので「必ず勝つ」というのは修辞上の悪い習慣にすぎない。しかし「勝ちたいなどとの生ぬるい精神ではダメだ、断じて勝つという精神が大切なのだ」とするのが大勢であり、「精神」は「必勝」と結びやすく、修辞上の正確さとは結びにくい何ものかであった。一高・三高対抗戦はその「精神」において一九三○年代後半の日本社会から孤立していなかったのである。
 p122
 他人の睡眠を妨げる寮歌の高歌放吟は「一高魂」――それは「大和魂」の最も高尚なるものに違いなかった――の昂揚を意味していた。そして小さなことにも議論を戦わせながら「ノー文句」という合言葉が尊重され、「馬鹿になる」ことの漠然たる必要が説かれていた。「馬鹿になる」ことが正確に何を意味するかは明らかでなかったが、正直な連中は「たまには馬鹿になれ」とさえ言っていたものだ。わたしたちが自らを馬鹿でないと信じていたことは確かである。ふだんいつでも馬鹿であるかもしれないという考えは、高歌放吟する誰の念頭にも全く浮かばなかった。
 p158
 近代の超克を説く横光利一駒場でさんざんにやっつけたとき、わたしたちは鴎外の筆法に倣えば、荷風の「化政」の塁によって横光の「日本文学の伝統」を皮肉り、フレーザー『金枝篇』の塁によって「みそぎ」の未開の愚を言揚げ、「講座派」の塁によって「大東亜共栄圏」と「聖戦」を嗤っていたにすぎない。そのとき横光には拠るべき堡塁が権力の作り出した時流以外に何もなかった。駒場に乗り込んだ横光は高校生にさんざんからかわれ、その屈辱がもとで胃潰瘍になって死ぬまで悶え苦しんだ。可哀そうだが自身の無邪気な哲学の対価である。
 p173
 真珠湾攻撃を知ってベルリン以外の世界中の首都は、東京とは全く逆の意味で歓喜していた。モスクワは日本軍が南に向かったことでゾルゲの情報が正しかったことに安堵したし、ロンドンは米国の参戦を確実にした日本の行動に狂喜した。亡命中のド・ゴールは「これで勝負は決まった」とつぶやいたという。米国では、日本は参戦しないだろうという議論の最中に奇襲の情報が届き、学者たちは耳を疑ったが、気を取り直すと会議を中断し、ファシズム没落の確定を喜んだ。
 p180
 グレアム・グリーンの小説の主題がカトリシズムというたった一つしかないこと、それはそのたった一つの主題が小説家が生涯をかけて展開しても尽きぬほどのものを包んでいたことに疑いの余地はなかった。中世は「暗黒時代」ではなく、ティエンヌ・ジルソンに従って価値と概念の体系を豊富に展開した積極的な時代と想像しなければならなかった。
 p185
 (渡辺一夫助教授の研究対象であった)十六世紀は、まさに宗教戦争の時代であり、異端裁判の時代であり観念体系への傾倒が狂気に近づいた時代であった。すなわち遠い異国の過去は、また日本と日本をとりまく世界の現代でもあった。資料を精読して過去の事実に迫ろうとすればするほど、過去の中に現在があらわれ、現在の中に過去が見えてきた、そのようなことを渡辺先生は身をもって私たちに示していた。
 渡辺先生は、露骨な表現は文明ではない、と言っているようにみえた。ラシーヌの舞台では、主人公の死が報じられるが、血の流されることはない。
 p191
 ヴァレリーは私にとって、単に詩人でも美学者でも文芸批評家でも科学者でも、哲学者でさえもなくて、それらの知的領域の全体に対して一人の人間の態度を決定するような何ものかであった。ヴァレリーの著作を文学と呼ぶか呼ばないかは、私にとってどうでもよいことであった。
 p196
 能舞台の上には、あるいは人を殺し、あるいは人を愛し、たったひとり地獄で苦しむ男や女がいるばかりである。地獄は社会の問題ではないからシテは一人で足りる。憎愛の限りは個性の問題ではないからシテは面をつけている。磨かれた床と正面の松一本のほかに、ここではどういう舞台装置が必要だろうか。