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ジョン・ダワー 「昭和」 3

 p181−2
 戦後、アメリカに対する国家主権の従属が軍事問題に限られていたなら、「白人国家の永遠の部下」という日本人の心理的負担はもっと少なかったかもしれない。アメリカは世界の軍事覇権国家なのだから。しかし、キッシンジャーが日本に秘密裏に中国と交渉を続け、ニクソンが封じ込め政策を突然放棄したとき、頭越しされた日本は全世界注視の屈辱に耐えねばならなかった。キッシンジャーは日本人をひたすら経済成長に専念する「貧弱でけちな帳簿係」にすぎず、世界的政策に関してはまともに扱われるに値しない存在であると見ていたのが暴露されたからである。
 p200
 第二次大戦中にアメリカではドイツ系アメリカ人もイタリア系アメリカ人も拘禁されなかった。有名な従軍記者が「ナチは不倶戴天の敵ではあってもまだ人間であると感じた。が、日本人には寒気を覚え、連中を見た後では精神の沐浴をしたい気分になった」と語っていたことがある。ヴォルテールの「白人と黒人と初めて出会ったとき、彼らの互いの驚きは如何ばかりであったろうか」という言葉はこの場合にもあてはまるのだ。日系アメリカ人の収容に際しては「猿=ザ・リトルメン=ジャップ狩猟解禁」の看板が商店の窓に貼られ、「ジャップ狩猟許可証」が公布されていた。
 対してヨーロッパでの戦争はどんなに悲惨であるにしても、「人間」を相手にしたヨーロッパ文明内での「身内の戦い」であった。ユダヤ人に対するホロコーストも、反ユダヤ主義の強いアメリカ社会では故意に無視したり、あるいは無関心の対象としていい問題だった。
 見方を変えて言えば、スティーブン・スピルバーグの『シンドラーのリスト』やハナ・アーレントの『イェルサレムアイヒマン』が観客と読者を激しく揺さぶったのは、絶滅収容所で起きたのが 「人間は同じ人間に対してこれほどの悪を、顔色一つ変えない陳腐な行為として行える」 ことの証明であったからである。私たちも含めて西洋化教育を受けた人間は、人間を殺すことが最悪の行為であることを疑わないから、絶滅収容所が「人類の罪」のもっとも端的な現れであることも無前提に受け入れる傾向がある。
 しかし、絶滅収容所に入れられたのが日本人やアメリカ・インディアンや奴隷黒人、中国人、フィリピン人という「見た後は精神の沐浴をしたい気分になる者の集団」だったらどうだったろうか。『シンドラーのリスト』や『イェルサレムアイヒマン』はあれほどの訴求力を持って私たち西洋化教育によって洗脳された人間を刺激できただろうか。

 p203
 「幼児」「猿人間」「類まれなる不埒な」日本人という言い方は、アメリカ・インディアンにも奴隷黒人にも、十九世紀以来の中国人にも、征服したフィリピン人にも用いた常套句である。支配者は時に父権的温情主義を呼び覚まされることがあり、被支配者を理性がなく無責任で未熟だから自らは教師として彼らを育まなければならないと傲慢にも考えた。マッカーサーが日本人の精神年齢は十二歳であると公言したことを知らない人はいない。
 p212
 アメリカの知識人は、古い知日派が言うように、日本人は取るに足りないことには長けていて、大きなことをあつかうには取るに足りないと考えるのが常だった。
 p213
 日本軍の中国・東南アジアでの白人男性と女性に対する数多くの残虐行為のかげには、十九世紀中に日本人が刺すような痛みを感じ続けた欧米人による蔑視のまなざしへの復讐感情がある。が、やがて日本人は自身の「指導民族」としての運命を強調しはじめた。白人の人種差別が他者の侮辱にエネルギーを費やすのに対して、欧米への被害者意識のつよい日本人の人種差別的思考は自己を「高める」のに集中した。
 この思考の中心概念が「大和民族」としての「純潔」である。その中で最も重要なのが「忠孝」であり、忠孝が中国よりも日本で高い道徳性としてたてまつられたのは、それが究極には天皇に焦点を合わせているからにほかならない。「忠孝を実現する大和民族の純潔」という偉大な真実は、したがって軍事化した帝国においてこそ全うされるのであり、戦争それ自体が純潔性を保つ行為となったのだ。
 p245
 その経済での業績にもかかわらず、世界を指導してゆくカリスマ性を欠いたまま、現代にいたるも構想と意思をもてないでいる日本。
 現代の日本には尊敬すべき点がたくさんあることはだれも否定しない。だが外国人が「日本人のように」なりたいと聞くことはめったにない。古代の中国や近世のイギリス・フランスや現代のアメリカは、その全盛期においては、非常に多くの人からその国の人のようになりたいと羨望された。
 p247
 アダム・スミスの「市場=見えざる手」を信じるアメリカ資本主義と、信じない日本の資本主義。前者は究極的には市民=消費者が主権者であり、後者の市民は市場を形成し得ない「民草」なのだ。地位志向型あるいは帰属志向型社会の日本では、主権者は製造者である。
 p258
 普通のアメリカ人のあいだには高品質の製品を作る日本人に対する敬意と善意の貯水池がある。しかしこの貯水池は五百年にわたって有色人種に向けられてきた、差別という汚染された歴史的土壌の上にある。人種による緊張が起きれば貯水池が台無しにされるのはあっという間である。
 日米間の経済覇権変動は、白人による世界支配が「リトル・イエロー・メン」によって終焉させられつつあることに歴史的意味をもつ。日本だけでなく韓国も台湾も香港も、何世紀も欧米人が恩着せがましいばかりで払う用意をしてこなかった敬意を要求しはじめた。彼らは中世に蒙古が侵入しヨーロッパ中で破壊・略奪のかぎりを尽くした「黄禍」をいやでも思い出さざるを得ない。
 p262
 日本人の団体行動に言及するときはアリやハチや家畜にたとえるが、これをアメリカ人がやるときはチームスピリットと言う。
 「リトル・メン」は無知な階層の野卑な言い方ではない。キッシンジャーアイアコッカという上流階級の白人優越主義者が、まさに日本が飛躍しアメリカが凋落しかけたときに口にした、人種理論という十九世紀の似非科学を根とする古典的表現である。その根には攻撃的な毒が含まれている。
 p264
 アメリカ人がプロテスタントの職業倫理、あるいは偉大な移民の「追いつき」の物語として大切にしてきた美徳が、日本の場合となると強迫的、狂信的、統合失調症的としてあつかわれる。日本が経済大国として立ち現れている現在の情勢において、自分が理解できない経済倫理行動の原因を日本人の精神的不安定さに求めるのはアメリカの精神的将来にとって不吉である。
 p281
 天皇は、日本の保守的な人にとっては、この国の伝統的な徳を映す鏡である。しかし懐疑的な欧米人とっては、昭和天皇はいっそう字義どおりの鏡である。それは超国家主義戦後民主主義も高度経済成長で自己満足する小心者の中産階級も映し出していた。彼らによれば天皇という象徴は自ら実体を見せないだけに順応性にきわめて富んでいるのであり、それだけ将来のイデオローグに危険な方向に操られる可能性も十分に残している。