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ニコラス・カー 「ネットバカ」 2

 p91
 十世紀まで、ヨーロッパの書き言葉には単語どうしを分けるスペースがなかった。起源である話し言葉を反映しているからだ。話し言葉には、考えてみれば、単語の間のスペースなどはない。反対に、単語同士をリエゾンでつなげて一語にしてしまうくらいである。だからアウグスティヌスは、そのころから徐々に一般化し始めた黙読する司教を見て驚いている。
 そのころは文法の厳密な規則も確立していなかったので、筆写者は語順もあまり気にしていなかった。いまだに文法規則が確立していない日本語を考えるとよくわかるように、話し言葉では、微妙な意味は主に抑揚によって伝えられるからだ。正確な範疇確定が求められる異国との条約文書や検事の論告などには、日本語は不向きな言語である。
 単語間にスペースを設ける分かち書き、正確な文法の確立による語順の固定、これらによる黙読の一般化は、近代になって詩が衰えた大きな理由の一つでもある。詩は言うまでもなく意味だけを伝えるものではなく、正確な語順や意味を犠牲にしてでも詩句全体の韻律の完成度が求められるからである。黙読されては韻律の美しさもなにもあったものではない。
 p96
 本を読むことは思索行為であって、著者の言うことをそのまま飲み込んで精神を空にすることではない。読者は読書中は自分の注意を外界のフローから切り離し、思念、情動の内なるフローに対していっそう深くかかわろうとする。
 p99
 音読が黙読に変るにつれて、図書館の個人閲覧室は取り壊され、学生や教授は長テーブルに向かうようになった。そして他人の文章から伝えられた思考と情報を、各読者が自分の頭の中で個人的に組合わせていくにつれ、個人であることの感覚が強化された。知の発展は徐々に私的行為となっていった。
 音読のほうが黙読よりも理解回路の深いところに届くというのは事実である。シュンペーターの「経済発展の理論」などドイツ語文脈のややこしいものを読むと、煩瑣な経済学用語やその範疇が、黙読ではいらいらするほど理解がとどこおるに対して、音読するとすらすら頭に入ってくる。
 ガルシア・マルケスの名作『族長の秋』は、普通の小説では数行ごとにされる段落分けが、一作品全体にわたってまったくされていない。黙読に慣れた人は最初パラパラと本をめくっただけで、読む気を失ってしまうような仕立てである。しかし黙読のナナメ読みをやめ、一語ずつ唇を動かして読んでいけば、物語作者としてのガルシア・マルケスの天才がジワリとこちらの脳内に染み込んでくる。

 p130
 ハイパーリンクは関連作品を単に指し示すだけでなく、そこへ向かうようわれわれを急き立てる。リンクは、どれか一つのテキストに継続的注意を払うよりも、あれこれのテキストを拾い読みするように画面を見ている人を促す。ハイパーリンクはわれわれの注意を惹くようデザインされており、そのナビゲーションツールとしての有用性は、われわれの注意散漫状態と切り離せない。ハイパーリンクは「世界は有価値なもの、信じるに足るものに溢れている」というプロパガンダに基礎を置く。このプロパガンダから自由であるのは並大抵のことではない。
 p139
 アメリカの教会ではツイッターなどで神からのメッセージを交換するよう、小さなパソコンやスマートフォンを礼拝に持ち込むよう勧めるところが増えている。芝居上演中に観客があわただしくツイートしている光景はインターネット企業の刺激的ビジネスチャンスだとグーグルのCEOはのたまわった。
 p150・168
 日本だけのケータイ小説の人気作家・凛という女性は「プロの作家は文が難しすぎるし、わざわざくどい表現を使っているし、ストーリーもみんなに関係ないことだから」と言ったらしい。連中の作る歌の歌詞が詩として成り立っていないわけがよく分かる。彼らは自分たちの永遠の現在をどこまでも貧弱な生活語彙で語り続ける。彼らにとって意識的に自分を「成長させる」ことはわずらわしいこと以外の何ものでもない。
 彼らはそれでも社会における自分の位置を最低限度は測定しなければ生きていけない。その社会的位置関係の測定を彼らは数分ごとのメール交換によって行う。群れでしか生きられない者の一員として、自分の仲間がどう過ごしているかに非常な興味があり、メールの交換によって自分の相対的な位置が分かるような気がするからだ。だからその仲間の輪から外れることに途方もない不安を持つ。メールをやめれば仲間に見えない存在になってしまうかもしれない、と。

 p154
 「大衆による読書の時代」はわれわれの精神史に短期間だけ生じた例外事項である。本が、ハイパーリンクが張られ関連書籍・新聞雑誌・動画ファイル・ウィキペディアに瞬時に飛べる電子書籍に移りつつあるいま、読書はかつての社会集団に立ち戻っていくだろう。読書階級という自己維持的な少数集団へと。