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トルストイ 「戦争と平和」 1

 岩波文庫五百ページX六巻。学生のときから、死ぬまでには読まねば、でも、読まないだろうと思ってきた。全巻通読した人は日本に何人いるのか、源氏よりどちらが多いのか。
 第一巻 p80
 絶対に結婚なんかするんじゃないぞ。君が自分でできることは何もかもやったと思えるまでは。何の役にも立たん老人になったら結婚しろ。でないと君の中にあるいいものが取るに足らんことに使い果たされてしまう。
 第一巻了 面白くなくはないが、とても面白いことはない。藤沼という翻訳者の訳文があまりよくない。戦闘場面の描写が、脈絡が不明瞭でわかりづらいことが多い。意味の伝わらない文章が何度か出てくる。三巻目のp130に「彼らが話していることには何一つ悪いことや、その場にふさわしくないことはなかった」あるが、ふさわしくない『もの』だろう。訳者が所々につけている「コラム」の文章が、トルストイへの阿諛追従が過ぎて馬鹿馬鹿しい。
 第二巻了。書き抜くところが一箇所もない。「国民が関心を持つ本当の生活はナポレオンとの関係にかかわりなく、あらゆる政治改革の外で進んでいた」というように、時代の動きは、登場人物が身辺の出来事に感じ取るかたちではなく、トルストイが局外者としてすべての上に君臨し、「記述」している。登場人物が夢を見るとすると、トルストイは「その夢はこういうことの暗示だよ」と、説教する司祭のようにあからさまに仄めかす。十九世紀小説にはそういうものもあったことをいまになって思い出した。
 第三巻了。あいかわらず書き抜くところなし。ナターシャは、トルストイが市販のロシア人形の骨組みに粘土をペタペタまとわりつかせて作った人形のようである。「作者が全力で創造したロシア女性の典型」と訳者は書くが、私には何の存在感ももたない。愛も悲しさも、「愛」と「悲しさ」と<書かれた>言葉でしかない。ソーニャ、アンドレイ、ピエールもすべて同じ。これだけのページ数を費やしてどういう「ロシアなるもの」の意識を読者に与えようとしているのか。源氏が私に何も感じさせなかったように。鈍い私が単に西洋近代小説の視点から見ているだけなのか。
 第四巻 p20-24
 ナポレオンにはイギリスの陰謀が戦争の原因だと思えたのは理解できる。イギリス議会のメンバーには戦争の原因がナポレオンの権力欲だと思え、商人たちには戦争の原因がヨーロッパを破滅させつつあった大陸封鎖だと思えたのは理解できる。・・・これらの一つが欠けても戦争はありえなかっただろう。つまりこうした原因すべてが、数百億の原因が一つに結びついたのだ。事件は起こらざるをえなかったからこそ、起こらざるをえなかったのだ。
 ナポレオンやアレクサンドルの行動は自由意志の乏しいものだった。ナポレオンやアレクサンドルの意志が果たされるためには、無数の事情の一致が必要であり、それらの事情の一つが欠けても事件は起こりえなかったからだ。
 人はだれでも、自分の個人的な自由を行使してある行為をしたり、しなかったりできると心底から信じている。ところが、ある行為は、それがされると同時に取り返せないものとなり、歴史の所有となる。人は意識的には自分のために生きている。しかし実際は、行われてしまった行為は時間の中で他の人間の無数の行為と結びついて、歴史的な意味をもってしまう。彼が皇帝であればその一挙一動はすべての群生的な人の行為と結びついており、彼個人がどう感じようと、その自由意志はきわめて制限されたものになる。「皇帝の心は神のみ手にある」というのはそういう意味である。
 リンゴが熟すと落ちるのは、引力のせいでも、軸が干からびるからでも、重くなって風にゆすられるからでも、下に立っている少年が食べたいと祈ったからでもある。これらすべての理由は同じように正しく、同じように間違っている。

 p106
 ドイツ人が自信を持つのは、真理を、学問を知っている思い込んでいるからであり、その真理は自分が考え出したものに過ぎないのに絶対的な真理と思っているからである。イギリス人が自信を持つのは、自分は世界で一番整備された国の人間であり、自分のなすべきことを常に心得ていると思っているからである。ロシア人が自信を持つのは、何かを完全に知ることができるなどとは信じていないからである。
 p213
(ナポレオンのモスクワ侵攻に対して)ロシア側の努力は、ロシアを救う唯一の戦略を実行しないことに絶えず向けられていた。ナポレオンを国内深くおびき寄せることは誰かの計画によって行われたのではなく、味方軍の合流という名の退却の結果であり、これらは将軍、宮廷官僚、貴族たちの反目、陰謀、果てしない議論と偽善、優柔不断の複雑きわまる戯れによって生じたのだった。