アクセス数:アクセスカウンター

フローベール 「ボヴァリー夫人」

 ボヴァリーくらい読まなくてはと思って本棚の奥から出したら、いつだったのだろう、読んだ形跡を見つける。十九頁「いや沈んだといったほうがいい、やっぱり底のほうになにか残っていますからな。重石のようなものが、ここに、胸の上に。」に傍線がある。二年生のあの事件のころかも。ところどころにタバコの刻みクズがあり紙にシミをつけている。たぶんショートピース。
 p88あたり
 十九世紀小説の典型作品。神がいなくなったことが社会意識になってしまったため、自然発生する自我に後ろめたさを感じなくてすむエンマと、妻が何を考えているかを察しない自足する愚鈍な医者である夫。ようやく主役になりつつあった市民階級が二人を取り巻き、自分以外に自分を動かす者のない近代社会の個人的悲劇がこれからはじまる。
 エンマは自分が夫以外の男に恋していることを自覚するが、鏡を見ながら「いまはまだ貞淑なのだ」と自分を言い含め、“夫のための自己犠牲”という近代になって初めて現れた怒りが多少は慰められる。しかしそんな潜在的不貞のまわりでゆらゆらする自分とは何なのだとは、自分を裏返しにして子細に調べる習慣のないエンマには気付きようもない。
 気付いても悲劇が避けられるわけではないが、二十世紀になってその人が捉える悲劇はより自覚的になり、そのぶん自己欺瞞は深く潜行するようになった。現象は言葉に捉えにくくなり、作家は描くのがむずかしく、小説は難解になる。
 「ボヴァリー夫人は私だ!」とのフローベールの有名な告白。彼女は、豪奢なくらし、小説で読んだ貴婦人の気高い心、しあわせな結婚生活、満ち足りた家庭生活・・・得られたかもしれないすべてのものを諦めさせたのはこの愚鈍な夫なんだと叫ぶ自己中心主義の平凡な姦通女である(p154)。読む人は二十世紀後半までは、この悲劇を人間の憧れそのものの喜劇とくくれただろう。悲しい喜劇なのだから、そこには苦いかもしれないが笑いがあり、人間の憧れを見つめなおそうとする余裕すらあったろう。
 その余裕が二十世紀半ばを越える頃に消えた。自己中心で何が悪いとみなが開き直り、個人の「ライフスタイル」は神聖化された。半径一メートルの「ライフスタイル」に数千万人がはまり込み、その一メートルの窮屈さを隣の人に分かるようには説明できず、平準化された大衆社会の底にブクブクと沈んでゆく。そして、日本で言えば数千万個の半径一メートルの穴の上には「幸福」という白い雲のような網がかかっている。
 p243あたり
 資本主義があらゆるものを追い立て始める十九世紀半ば。いなかの藪医者もエンマも浮気相手も高利貸しも毎日少しずつ縛られていく。不義を続けるには会う日ごとに等比級数的な情熱が必要だが、それには同じだけの金額がそのたびに必要になる。市民の誰一人としてそんなものは持っていない。だから波高い不義密通の中にも、金のかからない結婚生活と同じやりきれない平凡さがあらわれる。大きな幸福を掴もうとする努力は幸福の泉をかえって涸らしてしまうことになるのだ。
 融通手形を乱発させ、法外な手数料で仲間に割り引かせ、身動きを封じてボヴァリー夫婦の不動産を掠め取る公証人ルウルウ。夫婦の死後、祖母も祖父もすぐに死に、子供は紡績工場に売り飛ばされる。悲劇は十字軍の野蛮時代からあっただろうが、隣に住む息の臭い男が、金利にさといだけの才覚で「合法的に」成り上がり始めたのは十九世紀半ばである。
 ゲーテトルストイフローベールバルザック・・・・。悪が王侯から市民のところまで落ちてきた時代である。教会制度が葬式の手続き制度であることが下層信者にもはっきりしてきていた。一方では進化論が上層市民に注目され、自分たちの差別意識に「理論的根拠」が与えられた。ブルジョワ、民衆のルサンチマン(怨念)が社会の渦の中心に居続けるようになり、小説がとても書きやすくなった時代だった。