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清水 徹 「ヴァレリー 知性と感性の相克」

 ポール・ヴァレリーやステファーヌ・マラルメ、マルグリッド・デュラスの翻訳者として名高い人の駄作である。
 六○年〜八○年代に学生だった世代には魅力的な、二十一世紀にはセピア色になってしまったタイトルに引かれて読んでみたが、最初の三十ページで通読をあきらめた。何よりも「知性の人」であったヴァレリーが実は女を通してこそ生涯の内奥が語れる「感性の人」でもあった、というのがこの岩波新書の主旨である。
 つまらぬことを言う人もあるものだ。ヴァレリーほどの詩人にして知性と感性が相克しない人間などどこにいるのか。女に関係させてヴァレリーを覗いても何も出てこない。「官能の嵐に巻き込まれて精神の平和を失ったとき、どのような惑乱をへて『知性の人』を恢復させていったのか」などとは素人学生を欺く楽屋落ちの話でしかない。<官能→精神の惑乱→知性の恢復>などとはあまりに図式的じゃないですか、と、いまどきの学生すら鼻白むような呑気さである。
 ミネルヴァは内奥でしか動かない。内奥は外から決して覗けないからこそ内奥である。大昔、先達小林秀雄が言ったではないか、解けるものは謎ではないと。