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ハナ・アーレント 「イェルサレムのアイヒマン」 1

 p4
 (第二次大戦直後時点での)イスラエル家族法制では、国内でのユダヤ人と非ユダヤ人の結婚は認めていない。外国で行われた結婚は認められるが、生まれた子供は私生児とされる。国内での、結婚していないユダヤ人同士の子供は嫡出とされる。非ユダヤ人を母とする子供には、結婚も埋葬も認められていない。
 イスラエル民族がバビロン捕囚後に「ユダヤ教徒」として結集し生き残ったとき、彼らは賤民存在(パーリア)だった。パーリア民族とは、「ユダヤ人ゲットー」でのように、共同体の内部と外部で道徳を使い分ける二重道徳を本質とする人々の集合体のことである。以後ずっとこの「パーリア民族」は二重経済倫理に基づく「賤民資本主義」者(例えば高利貸し資本家)として西洋社会の中にネガティブな意義を持ち続けていくことになった。この二千五百年を超える歴史は第二次大戦直後時点でのイスラエルにも十分に生きていた。
 p7
 ドイツの「ユダヤ評議会」は、ユダヤ人に対する世界の敵意に対処するためには“具体的な協力”が欠かせないとする、マキャベリ的含みを持たない非常に危険な「現実政治」を選んだ。この「現実」的態度とはもちろん「勢いあるものの赴くところに従う」というきわめて安易な御都合主義にほかならない。二重道徳を本質とする人々が選んだ生活態度の当然の帰結である。
 p8
 アラブ諸国は、近東における「最終的解決」の実行にナチが手を貸してくれることを望んでいた。戦後、ドイツ検察から逃亡したナチ犯罪者数百人に公然と避難所を提供していたほどである。(アラブとユダヤの喧嘩は五十年前に始まったのではない。二千五百年前からである。)
 p12
 逮捕されたナチ党員に対して検察は最高刑の終身懲役を求刑することがあったが、裁判所はきわめて寛大だった。一般ドイツ人は、この連中は自分の意志では殺人を犯すようには見えなったから、殺人者が実名で闊歩していても気にもとめなかった。しかしアイヒマンがアルゼンチンで捕捉され、エルサレムで裁判が始まると、ドイツ国内ではナチ残党を探し出し告発するのに大わらわになった。アデナウアーたちはこの裁判が全世界に新たな恐怖をよみがえらせ、激しい反ドイツ感情を呼び起こすことを何よりも危惧したのだ。一般ドイツ人やアデナウアーに急に「人類への罪」意識が芽生えたというナイーブな話ではない。
 p13
 多くのドイツ人がすねに傷を持つ身だったからこそ、各省庁の高官や連邦検事総長の前歴を暴露できなかった。党員の枠をはるかに超えてほとんど国民全体に及ぶ共犯関係という爆発的な問題は慎重に避けなければならなかった。
 p16
 アイヒマンの弁護人セルヴァティウス博士の言。「アイヒマン服従しただけであり、勝ったときには勲章をもらい、負けたなら投獄される、というような行為を行ったに過ぎない。」
 p19
 アイヒマンは言う。「私が最善を尽くして遂行したヒトラーの命令は第三帝国では「法としての力」をもっていた。私が行ったことは遡及的にのみ罪となるものである。」
 p221(あとがき 本来はまえがき)
 アイヒマンの完全な無思想性――これは愚かさと決して同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人のなる素因だったのだ。イアーゴーではないアイヒマンから悪魔的な底の知れなさを引き出すことは不可能である。しかしだからといって彼を滑稽者ですませられることではない。この無思想性は、悪の本能のすべてを挙げてかかったよりも猛威を振るうことがあることを示している。
 p226
 「国家行為」ということによる免罪を認めれば、ヒトラー――完全な意味で真に責任を負う唯一の人間――すら罪を問われないことになる。
 一方「上からの命令」を論拠にされた場合は、どこの国の法理論も、それが被告の良心の正常な働きを著しく阻害することを認めざるをえない。(スタンリー・ミルグラムが一九六三年に行った人間の服従性に関する有名な実験(別名アイヒマン実験ともいわれる)は、閉鎖環境において人間は権威者の命令に、それが不当と思える命令であっても、いかに諾々と従ってしまうかを明らかにした。)
 p227
 ナチの犯罪を黙認したローマ教皇の責任を問うホッホフート『神の代理人』を俟つまでもなく、「国家」や「上の命令」を持ち出せば、この種の問題では(神が権威をもっていた時代のようには)ひとびとの直観というものはまったく認められなくなる。
 東北大震災での福島原発の事故は東京電力にすべての責任があるとは、良識ある人は直観していない。相手は千年に一度という世界史的な大地震であり、災害後に論議されている津波対策の不備は、多くが「こうしておけばよかった」という後付けのお粗末な理屈である。先立つ数十年の間に、千年に一度しか来ない三十メートルを超す津波対策を講じれば、経済的負担は大変なものである。しかもそれはすべて電気料金となって住民にはねかえる。世界一高額となる電気料金を地震の起きる前に了解するなどと考えるのはよほどのお人よしである。あるいは極めつけの偽善者である。
 しかしこうした直観は、ナチ時代の「国家」以上の権威を持ち始めた「国民世論」の命令のまえにはまったく無力である。ここに露呈されているのはニヒリズムでもシニシズムでもなく、道徳性という基本的問題をめぐる異常な混乱である。