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ハナ・アーレント 「イェルサレムのアイヒマン」 4

 p84
 ナチは、絶滅収容所の殺害者部隊に、自分の行為に快感を覚えるような人間が選ばれないよう、周到な方法をとった。その絶滅収容所の指揮官には、ナチ最上層の人間が、学位を持つSSエリートたちを直接選抜した。彼ら指揮官の頭にあるのはヨーロッパ大陸ユダヤ人が浸透し始めて以来の)「二千年に一度の大事業」に参画しているという観念だけだった。
 p88
 一九四五年一月、ナチ党員ではない一人の女性市民が公衆を前にして叫んだ。「ドイツが負けたときはヒムラーが私たちをガスで安楽死させてくれるでしょう。ロシア兵に殺されるよりはずっといい。それなのにその高価なガスを、ユダヤ人のために使ってしまったなんて!」
 p90
 四十二年一月ナチ政府各省の事務次官たちが集まって、(ユダヤ人絶滅という)「最終的解決を快い雰囲気の中で」全員一致で決議した。階級でも社会的地位でもアイヒマンよりはるかに上位に立つ国家官僚のエリートたちが、競い合うように血なまぐさい問題解決の先頭に立つのを見て、アイヒマンは「(イエス処刑を命じた)ピラトのような罪は全然自分にはない」と良心をなだめられた。
 学業劣等だったアイヒマンは、成人しても自らすすんで仕事を企画し、責任を持って人を率い事業を完遂することのできない平凡な男だった。その代わり、上司と目される人間から命じられれば「銀行の窓口係のように」その仕事に精励し、ドイツ人らしくやり遂げた。「ピラトのような恐ろしい罪」はエリートが冒すもので、アイヒマンのような小役人が思い煩うことではなかったのである。
 p93
 ユダヤ人の中央評議会は絶大な権限が与えられていた。異民族と高度に同化した西欧のユダヤ社会でも、東欧のイディッシュ語地域でも同じだった。中央評議会の役員は名簿や(時計や金歯を含む)財産目録を作成し、空き家となった住居を見張り、捕らえて列車に乗せる仕事をドイツ司直から任されていた。逃げようとするものは中央評議会管轄のユダヤ人警察官が逮捕した。
 財産目録は被害者本人が記入する場合もあった。そうでなくては数千人のドイツ人の文官で何十万の他民族を抹殺することは不可能だった。
 ユダヤ人役員たちは「百人を犠牲にして千人を救う船長」のように自分たちを感じていたのだった。事実は逆で、ハンガリーでは四十七万人を犠牲にして千七百人を救ったのである。そして彼らが救うべき人間として考えていたのは「ユダヤ共同体のために働いたもの」、つまり役員たち自身だった。
 p97
 収容所で殺害に直接手を下したのはユダヤ人特別班だったことは検察側証人で確認されている。死体から金歯を抜き取ったことも、墓穴を掘り、反抗の痕跡を消すため掘り返したことも、テレージェンシュタット収容所ではガス室を作ったことも。巧妙なSSは、明らかに犯罪分子的な一番タチの悪いユダヤ人を選別してこれらを行わせた。
 p98−99
 ユダヤ評議会の仕事が「愉快に円滑に捗るよう」、ナチ当局からユダヤ評議会に「命令」が下ることは少なかった。役員たちはいつも丁重に扱われ、メンバーの構成や分担は彼らに任されていた。
 ユダヤ人が組織されていなかったこと、領土も政府も軍隊も持たなかったことがあれほどの犠牲者を生んだといわれているが、ユダヤ人が暮らしているところには必ず「ドイツ人のためのユダヤ人指導者」がいたのである。そしてこれらの指導者はほとんど例外なく、たとえば「ゲットー警察」を指揮するなど、ナチに協力していた。
 もし本当にヨーロッパ全土の未組織であったなら、犠牲者が六百万にもなることはなかったろう。ドイツ国内のユダヤ評議会でリストアップされ、収容所に送られた人の九十九%は殺されたが、オランダでは、評議会のリストから逃れ地下に潜った二万五千人のうち一万人は生き延びたのである。
 p100
 「体制に対して、自分はいつも内心では反対していたのだ」と言う人が必ずいる。それらの“国内亡命者”は、秘密を守るために「外部に対しては普通のナチよりもナチらしくふるまうことが必要だった」と言う。そのうちの博士号を持つ大物の一人は、「いつも自分のしていることに反対しながら」一万五千人の殺害を指揮している。「本物のナチ」の目を欺くアリバイを得るために。
 p104
 中央評議会などに属する特恵的カテゴリーのユダヤ人名士は、自分が「特例」であることを認めることで、ナチの「原則」を容認していることに気づかなかったのだろう。しかし彼らを扱うナチにとっては、すべての非特例に死を宣告するこの原則を、「特例」たちが適法として承服していることは、明白だったのである。今日でも、「名士」アインシュタイン追放したのは遺憾であるというような観念は人々の頭から去っていない。
 特例の人たちのゲットーとして、外国メディア用にテレージェンシュタットが設けられた。しかし特例の数はかなり多かったから、ここでも恐るべき「間引き」が定期的に行われた。
 p105
 アイヒマンの上司ハイトリッヒ、空軍のミルヒ元帥、ポーランド総督ハンス・フランクは半ユダヤ人であり、ヒムラーの家系にもユダヤ人の痕跡がある。ヒトラー自身も三百四十人の「第一級ユダヤ人」の知人がいる。非常に危険な人間ハイトリッヒを高く買ったのは、その血統のためにヒトラーが彼を自由にできるからだった。