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ウィリアム・ジェイムズ 「プラグマティズム」 1

 p33−34
 ある哲学者に対するわれわれの好悪の反応は、その哲学者が要点をかいつまんでゆく感応の正確さに左右される。それが読者に、ジグソーパズルの正しいピースのように、問題にぴったり嵌合する印象を与えられないとき、その哲学者の体系は社会から受け入れられない。
 哲学者も、自分の体系の 「効用」 を訴えようと思えば、複雑な問題を巧みに言いあらわす直覚的な形容語の才能が必要である、というわけである。
 p39
 「およそ一つの思想の意義を明らかにするには、その思想がいかなる行為を生み出すに適しているかを決定しさえすればよい。すべての思想の差異なるものは、たとえどれほど微妙なものであっても、根底においては、実際上の違いとなってあらわれないほど微妙なものは一つもない。」 
 アメリカ文化の基礎にあるプラグマティズム。上の二、三行はそのもっとも源流に位置する忌憚のない宣言である。しかし、たとえば俵万智の 
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日  
をわたしがちょっと記憶間違いして
大好きな君が「この味がいいね」と言ったから七月六日はサラダ記念日   
と書いたとするとどうなるか。歌われた恋の美しさと、読むものに投げかける幸福の情動は、微妙に違うのか、まったく同じであるのか。
 受け取り方は分かれるだろうが、わたしにはほとんど変わらない美しさと切なさが入ってくる。ほとんど変わらないなら、「君」と「大好きな君」などの、表現としての微妙な差異は情動行為の差異を生み出さず、プラグマティズムによれば二つの歌に「実際上の違い」などないということになる。
 しかしそれはどうか。わたしはほとんど変わらないと受け取ったが、「君」のK音で始まるのと「大好きな君」のD音で始まるのでは全体の韻律が大きく変わるという人もいるだろう。俵万智がすぐれた歌人であるという社会的評価に大きな影響はないとしても、K音とD音の違いに悩んだ経験のある人たちにすれば、「思想」の違いを行為の差異で表わすほど乱暴な議論もないだろう。
 開拓時代、動物と先住民への「行為」だけが身を守る手段だった時代に、思想のニュアンスを行為の違いに結び付けてしまったアメリカの愚かさ。その姿勢がともかくも百年後には圧倒的な国力に直結したかのように見えた。そして国の「文化」を国の「力」と勘違いしたのがそもそもの間違いの始まりだった。
 わずかな言葉のゆらぎに表れる「その人なるもの」を捨てて、意味や帰結だけを問うなら、詩は自分勝手な嘆息にすぎないだろう。あと何歩か行くとそこは、精神現象を現在のコンピュータで解析できるレベルの物質現象として説明するだけの、不毛なニヒリズムの深淵だろう。
 「行為の差異に現れない、思想の微妙な差異などない」というジェイムズの言葉は、間違いなく価値相対主義の表明である。思想の差異は行為の差異に帰結するものであるから、たとえばジャックとジョンの二人の人間が同じ行動をとるなら、二人の人間のあいだに思想の差異はないということになる。と言うか、アメリカにおいては、「個人の権利は侵しがたいものである(とアメリカの憲法で決まっている)のだから、細かいことはいいじゃないか。ジャックとジョンは友達ということでいいじゃないか」となる。「個人の権利は侵しがたい」し、大切なのは各人の「ライフスタイル」なのだから、目くじらを立てて優劣をつけてはならないのである。
 アラン・ブルームは『アメリカンマインドの終焉』で言う。 「価値相対主義の中では、人々はある行いの帰結を知的・道徳的な根拠なしに取り仕切らなければならない。誰でもある判断をするには、相対的ではない価値を必要とするが、この価値は、うわべだけではない特異な人間の創造性を必要とする。しかしこの創造性はいまや涸れつつあり、アメリカの価値相対主義の理性には確かな根拠を持ったどんな支えもない。あるのは、発言者全員がそれぞれの立場で正しいとする寛大さのみである。
 科学的分析という理性は、人間が価値評価を行なうための地平を消滅させておきながら、それが今度はその理性自身が相対的であり無力だと結論する。「嘘つきのクレタ人」のような自己言及の矛盾が現れていることに気付こうともしない。
 もしも、価値相対主義が真実であり良しとされるなら、それがわれわれを魂のきわめて暗い領域と危険な政治的実験へ追いやることは明らかである。しかし魔法にかけられたアメリカの土壌には、このような悲劇的感覚を容れる場があまりない。」 
 かくしてすべての大衆は尊重される一方で、「こんな自分とは何か」の思いに苛まれ続け、あい携えるべき無力な手を切り離されて孤独の闇に沈んでゆく。