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ウィリアム・ジェイムズ 「プラグマティズム」 3

 p87
 世界の設計者が誰であるかが問題なのではない。その設計が何であるか、世界とは何であるかがはるかに大きい問題なのだ。
 世界に生み出されるものが何であろうと、たとえば最近の大噴火や大洪水による人畜の死、家屋の崩壊、船の沈没などすべてが起きるには、(設計材料として)既往の歴史全部を必要としたということである。
 ひとつの歴史的事件が起きるためには既往の歴史全部が必要である、つまり歴史的事件はその人にとって一回限りの事件である。にもかかわらず、われわれは歴史に「意味」を読み取り、そこにその人にとっての否定的あるいは肯定的「価値」を見いだそうとする。つまり百億もの事実をその人の表層意識の視野が及ぶ百の事実に圧縮して評価することができると考える。このわれわれの表層意識がいかに傲慢な妄念であるかを、小坂井敏昭氏は『責任という虚構』の中で簡潔に論証する。
 <ポリアの壷に似た思考実験がある。箱の中に黒い玉と白い玉が一個ずつ入っており、中を見ないで箱から玉を一個取り出した後、同じ色の玉を一つ加えながら箱に戻し、数百個たまるまでこの作業を行う。一度目の実験では白玉と黒玉の割合は、(例えば五百個ほどたまった時点を仮に考えると)まるで世界秩序が最初から定まっていたかのように一定の値(=定点:たとえば約三百五十対約百五十)に収斂し、実験をそのまま続けても値はほぼ変らない。しかし黒玉と白玉一個ずつの状態に戻して実験をやり直すと、(同じく五百個ほどたまった時点で)今度は先ほどとは違う値(たとえば約三百対約二百)に収斂する。今回も定点に収斂してシステムが安定するのは同じだが、箱の世界が実現する真理(収斂する値)は異なる。どんな値に収斂するかを前もって知ることは誰にもできない。
 われわれの世界に現れる真理は一つであっても、もし歴史を初期状態に戻して再び繰り広げることが可能なら、そのときにはまた異なった真理が現れるだろう。しかし歴史はやり直しが聞かない。そのおかげでわれわれは一回限りの「真理」を手に入れる。>

 p88
 「設計」が、われわれが教会でわけも分からず賛嘆するだけの、先験的な原理に過ぎないなら、それは無価値なものであろう。しかし、以前よりも信頼するに足る未来への展望を獲得するなら、われわれは当然よりよき結果を期待しえよう。未来に対するこの漠然たる信頼こそ、「設計」がもつ唯一のプラグマティックな意味である。
 p91
 自由意志とは、「未来は過去を同一的に繰り返すのでも模倣するものでもない」ことを期待する権利にすぎない。世界は、現にある通りに必然的であり、それ以外ではどうしてもありえない。
 p107
 「神の道はわれらの道にあらず、さればわれらをして、両手もて口を覆わしめよ。(ヨブ記)」これほどの恐怖を人に与えて自ら楽しむ、動物精気の高すぎる神は、人間の訴えるべき神ではない。おのが唯一の目的をもってのぞむ「絶対者」は、凡人が頼るべき人間らしい神でなければならない。
 p125
 実体とは、われわれの遠い昔の祖先が発見した諸現象の別名に過ぎない。諸現象を一緒にして経験や思惟し、われわれが少しは<ものの本質らしきもの>に近づくための形式にすぎない。
 p147
 真の観念はわれわれの生活に、以前の生活との実際的な差異を生じさせる。真の観念とはわれわれが同化し、「効力」あらしめ、確認し検証できる観念である。偽なる観念とはそうできない観念のことである。
 ニセモノの宗教もこのような生活上の差異を生み出すと説くが、この場合はその宗教が持ち出す「世界」の設計に問題があるのだろう。ニセモノの宗教によって説かれる世界の原因には(教祖による)偏りがあり、現実世界のように既往の歴史全部を必要とはしていない。