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ウィリアム・ジェイムズ 「プラグマティズム」 4

 p168
 先験的合理主義者にとっては、プラグマティズムが言う「経験によって成就しつつある真理」などは「心理学的な事実」、「思想家めいめいの考え」でしかない。彼らは、経験相にある泥まみれの実例の背後に、より高い真理の相があると考える。机上であれほど抽象的な美を賛嘆しながら、その美が眼の前で「働いて」いる建築や絵画に、なんらの熱情を感じない合理論者や美学者はたくさんいるのだ。
 p176
 われわれの多くは相当の年配になってからでも、真理そのものとは何かという疑問が、疑問として成り立たないことに思い当たりもしない。このことは、ラテン語そのものとか法律そのものというものが、(新語をどんどん接木した言語体系や、新法をどんどん接木した法律体系の)重宝な概括句にすぎないことに気付かないのとまったく同じである。
 慣用句が以前の慣用句に接木されて意味が豊かになり、法律が以前の法律に接木されて体系化されるように、真理も言語も、「われわれの歩みにつれて作られる」ものにすぎないのである。
 p185
 われわれは同一の星座をチャールズの戦車、大熊、柄杓などと呼んでいる。どれも間違っていない。真理とは「実在である」のではなくて、実在についてのわれわれの「信念」なのであるから、それは先験的であるはずがない。
 (ジェームズの友人が「驚嘆すべき星座を、台所用品で表わすとはアメリカ人は情けない」とユーモラスに慨嘆したという。しかし生真面目に捉えれば「星座を台所用品で表わすこと」には、「この偉大な国を建設した自分たちの生活を超えるものなどあるはずがない」とのアメリカ人の楽天的な自足感、あるいは、イギリス帝国主義の先兵だったセシル・ローズの「南アフリカどころか、もう少しで、月まで併合できたものを・・」といったアングロサクソン的傲慢がよく表れている。)
 (こうしたプラグマティズムの身も蓋もない言い方に対して、どんな反証の仕方があるのだろうか。「プラグマティズムそのものであったアメリカの社会・経済は世界の生活に有用な範となるものを示しえたか」という岡目の理屈しかないのだろうか。シェリングは「効用」を説くイギリスの経験主義哲学者に「ところで「効用」にはどんな効用があるのかね」と訊いたという。)

 p190
 プラグマティストの宇宙はただ一つの版しかなくて、それは未完成で、あらゆる箇所が、とくに思考する存在者が働いている箇所が、成長を遂げつつある。先験合理論者の宇宙には多くの版があり、そのうち自分の持つ版だけが真正の版で、すでに完成済みの豪華版とか呼んでいる。
 p199
 多元論的なプラグマティズムは、もちろんブラフマンアートマンの普遍概念を排斥しない。アートマンの有用性はもちろん科学的なそれではないが、「絶対者」のわれわれの生活に対する「効用」は宗教史の全過程によって実証されている。絶対者との交信によって生まれる宇宙感情には、高貴なるものへの信頼から生まれる巨大な歴史的弁証があるのだ。
 p220
 われわれが愛するイヌや猫は歴史の曲線の切線でしかない。この曲線の初めも終わりも彼らの視野をまったく超えている。そのようにわれわれも事物のより広大な生命の切線なのである。
 そしてイヌや猫が、われわれと共に生きた日々の証拠を持っているように、われわれもまた、宗教的経験が供給する証拠にもとづいて、より高い力が存在し、われわれと同じ理想線上において世界を救おうとしていると信じていいであろう。
 全頁を貫通しているアメリカ的なるもの。つつましさ・自足と、その裏返しの傲慢の、簡潔な表現。「有用」と「効用」という、フランス人が成り上がり者の粗野をせせら笑い、日本人が圧倒的物量の前に怯えきったアメリカ的なるものの源泉を書ききって、インパクト十分の「哲学書」であった。
 そのアメリカでは、多くの教会がいまや「いろいろなライフスタイル」の信者の「会堂」になれ果て、そこでは「神からのメッセージをツイッターなどで交換し合える」ようになっているという。牧師や協会役員が小型パソコンやスマートフォンをそこに持ち込むことを奨励しているのである。こうしたことにジェームズはどうコメントするのだろう・・・。