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リースマン 「孤独な群集」日本語版への序文

 p2
 多くの学者や批評家たちは日本人を「他人指向的」と批判的に語る。確信を欠き依存的だということである。しかしそれは、狂信的で排外的で他人のことを一向に気にかけない態度を、日本人は克服しているとも言えるのではないか。
 p14
 マルクスウェーバーは、近代の科学や技術、経済組織、イデオロギーないし党派的組織の力が非常に強いから、世界中どこでも同じスタイルの社会が生まれてくるだろうと言う。われわれはこれらの決定論を受け入れたくない。(次の十九ページとは明らかに矛盾している)
 p19
 こんにちの世界に残されているもっとも重要な情熱は、それぞれの文化だの、習慣だの、信仰だのを守り続けるという情熱ではなく、西洋社会の技術と組織という目標を達成しようという情熱なのだ。
 特定の集団なり、種族なりがその固有な歴史的遺産を土着主義的、ないしは復古主義的な運動によって守ろうとするときには、その努力そのものが、じつはそれまで当たり前のこととして行われていた文化的な習慣の終末を意味するのである。
 たいへん逆説的なことだが、このような復古主義的伝統を守ろうとする考え方が生まれることによって、その社会の近代化のスピードは高まり、伝統は死滅寸前のイデオロギーになってしまうのである。
 序文を読んだだけだが、この本は一九四八年前後のアメリカ、絶頂期が始まろうとし冷戦に勝つことの意味を誰も疑わなかったアメリカにおいて、国をリードする人間はどのような「社会的性格」の人々だろうか、を論じたものである。
 「社会的性格」とは他人指向型か内部指向型か、ということである。「どういう国民性をアメリカ人は持つべきなのか」と、リースマンは今日には考えられないような大胆さで、第二次世界大戦の直後に見られたアメリカ人指導者の性格類型を、与件として認めている。国の将来像に関して国民の性格を論議するのだから、アラン・ブルームのように「ドイツ哲学はこの国では輸入された時点で傷んでしまう」などとは、本文でもきっと言わないのだろう。ブルームが「ライフスタイルの一語でかたづける相対主義社会」をリースマンは「イデオロギーが枯れはてた穏健で常識的な態度に満ちた世界」であると、自足に満ちて言い放つ。三十七頁の「今のアメリカで盛んな自己自身を確かめたいという試みは、人間を性格学の必然性から解放したいという動きの反映である」にいたっては、陳腐な新聞記事のような分析である。
 二十三頁のように「アメリカ社会には一種の活力主義と進歩的な楽観主義が強い反面、つねに懐古主義的な考え方が同時に存在しているのだ」と、リースマンは「活力主義」と「楽観主義」を、定義を吟味せずに無批判に使っていくだろう。終章では「センチメンタルでない形で人間同士の結びつきの理想を考えた」ということだが、この言葉はリースマンの世界観をとてもよく表わしている。たとえばウェーバーなら「人間同士の結びつきの理想」という単語は口が裂けても使うまい。
 二十四頁で「工業化終了以後、人々の自立性は仕事の領域ではなく、むしろ遊びとレジャーの中にあると考えたのは正しかった」とあるのには、読者はノスタルジアを感じる。たしかに金融資本主義が暴力的になる前、そういうことが言われた。リースマンは当時の時流に乗った多くの言葉を、気軽な新聞論説を書くような調子で取り入れたために、当時名著といわれたこの『孤独な群集』は、たとえばハナ・アーレントの政治哲学著作の半分も寿命を持たなかった。たかだか三、四十年読まれただけの流行本だったのである。圧倒的な軍事国家の哲学者が世界を睥睨する本を書くということはこのように恐ろしい。