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漱石文明論集 1(岩波文庫)

  漱石の「思想」を理解するうえでもっとも重要とされる文明評論。「吾人(われわれ)の幸福は野蛮時代とそう変わりはなさそうである」ことについて、いま日本の誰がこれだけ上等の日本語を操れるだろう。漱石が聴衆を大笑いさせる演説の上手とは知らなかった。向こう受けをねらうあざとさをまったく出さないところに、幼少期から培われた儒教的倫理観と、「江戸」の没落名家に育った人の洒脱さがある。
 「現代日本の開化」
 p20
 道楽だって女を相手にするばかりが道楽じゃない。好きな真似をするとは開化の許す限りのあらゆる方面にわたっての話であります。自分が画が描きたいと思えば出来るだけ画ばかり描こうとする。あるいは学問が好きだといって、親の心も知らないで、青い顔をして書斎へ入ってくる息子がいる。そうして、天地の真理を発見したいなどと太平楽を並べて、机にもたれて一人勝手に苦りきっている。
 p31
 集団の意識の長期間にわたる動きを考えてみましても、人間活力の発展の経路たる開化の脈もまた、個人の意識の変化と同じような波動を描いて進んでいくと言わねばなりません。波の数は無限無数で長短も高低も千差万別でしょうが、甲の波が乙の波を呼び出し、乙の波が丙の波を誘い出して順次に推移しなければならない。一言にしていえば、開化の推移はどうしても内発的でなければ嘘であります。
 p33
 日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流で、その波を渡る日本人は西洋人ではないのだから、新しい波が寄せるたびに、自分がそのなかで食客をして気兼ねをしているような気持になる。
 外発的開化の影響を受ける国民は、どこかに空虚の感があるはずであります。またどこかに不満と不安の念を懐くはずであります。それをあたかもこの開化が内発的ででもあるかのごとき顔をして得意であるのはよろしくない。それはよほどハイカラです、よろしくない、虚偽でもある、軽薄でもある。煙草を喫って味もわからない子供のくせに、さも旨そうな風をしたら生意気でしょう。
 p34
 現代日本の開化は、皮相上滑りの開化であるということに帰着すると評するしかない。しかしそれが悪いからおよしなさいと言うのではない。事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければなりません。
 p38
 外国人に対して、俺の国には富士山があるというような馬鹿は今日はあまり言わないようだが、日露戦争後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。なかなか気楽な見方をすれば出来るものだと思います。
 「中味と形式」
 p56
 歌を作る規則を知っているから、和歌が上手といったらおかしいでしょう。文法家に名文家なく、歌の規則などを研究する人に歌人はいないとはよく人の言うところです。実地の生活の波濤をもぐってこない学者の学説は、中味の性質に頓着なくただ形式をまとめたような弱点が出てくるのもやむをえないわけです。
 「文芸と道徳」
 p70-71
 昔の道徳は、たとえば荒金のように種々な異分子を含んだ自然物ではなく、純金といったように精錬した忠臣なり孝子なりを意味しております。それに達しうる念力を以て、修養の功を積むべく余儀なくされたのが昔の道徳であります。
 だから、個人に対する倫理上の要求はずいぶん過酷なものである。少しの過ちがあっても許さない、すぐ命に関係してくる。何ぞというと腹を切って申し訳をしなければならなかった。昔だって切りたい腹では決してなかったんでしょう。けれども切らせられる。社会の制裁が非常に悪辣過酷なため、生きて人に顔が合わされないから、むやみに安く命を棄てたのでしょう。
 p74
 また、階級制度で社会が括られていたのだから、階級が違うと容易に接触すら出来なかった。突拍子もない偉い人間、すなわち模範的な忠臣孝子その他が、世の中には現にいるという観念がどこかにあったに違いない。
 p83
 近来の日本の文士のごとく、根底のある自信も思慮もなしに、道徳は文芸に不必要であるかのごとく主張するのは、甚だ世人を迷わせる盲者の盲論といわなければならない。
 文芸の目的が徳義心を鼓吹するのを根本義にしていないというのは、それはそれでしかるべき見解であるが、徳義心の批判を許すべき事件が作中に織り込まれるならば、道徳と文芸をどうして没交渉とすることが出来よう。いわゆる身辺雑事の名誉、不名誉をありのまま書いて、「これは文芸であるから道徳、不道徳は云々すべからず」というのは、女相手の道楽は天地の真理の発見に通ずと言うのと一般であります。