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グレアム・グリーン 「情事の終わり」(新潮文庫)

 p137
 あの頃が最もひどい時代だった。想像すること、イメージにおいて考えることはわたしの職業だ。一日に五十度も、そして、夜半に目をさませばたちまち、幕が上がって芝居が始まる。いつも同じ芝居、故意のたわむれをしているサラ、わたしと彼女がしたのと同じことを X とサラがしているのを、職業として考え続けなくてはならないのだった。
 彼女を破裂するところまで悩ませることのできないわたしの無力はわたしを腹立たせた。どんなにわたしは彼女を憎んだか。
 p138
 もちろん愛に終わりがあるように、憎しみにも終わりがある。六ヵ月後、一日中サラのことを考えずにいたことに気付いたとき、その日わたしは幸福であったことを知った。
 そしてその翌日、サラから会いたいという電話が入ったとき、幸福はたった一日で終わってしまった。会った日に、六ヵ月前と同じことをしているとき、わたしは何も考えることができなかったが、彼女が部屋を去ってから六ヵ月間は、また一日中サラのことを憎しみとともに愛さずにはいられないのだった。

 p95
 サラは疑いを持たなかった。その瞬間だけが問題であった。永遠とは時間の延長ではなくて、時間の欠如であるといわれるが、わたしには彼女の自己放棄はあの不思議な数学上の点、広さを持たず、空間を占めない点の持つ無限性に達しているように思われることもある。酔ってそのことを彼女に話したこともあったが、彼女はわたしの目を見てはいなかった。
 p185
 ヘンリー何世かは自分の生地が敵に焼かれるのを見たとき、こう言って神を罵ったという。「汝が予の最愛の町、予の生まれ成長した街を予から奪った以上は、予は汝が汝において最も愛するところのもの、汝の下僕どもを残らず汝より奪うであろう。」
 p320
 わたしは、その影をわたしまでさしのばして、こうも悪いほうへわれわれを変化させる、サラとの二十年前の長い夏の午後を憎んだ。あの年、わたしは処女作を書き始めていた。いかに多くの野心と希望があったか。
 そのときのわたしは冷酷ではなかった。優柔不断ではあったが、幸福だった。しかし恋と情事の区別を知らない神は、「時代」や「世界」の顔をして、うつろいやすい気分に乗せられる恋人のように陰険に、伝説の魅力で誘惑する英雄のように狡猾に、サラとわたしの心に浮かび始めていた。
 一級作品だが、超一級というほどでもない。愛と情事の違いに気づこうとしない不心得な日本人にとって、グレアム・グリーンの神は「彼を愛しはじめれば、ただそのことゆえに自殺できなくなる」というありふれたカトリックの神にすぎない。少なくとも、オーウェルスターリンのようには、その神は恐ろしくない。
 最終センテンスはヒット映画の原作らしいものだった。「わたしはすでに倦みつかれ、愛を学ぶには老い過ぎました。永久にわたしをお見限りください。」