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E・M・フォースター 「天使も踏むを恐れるところ」(みすず書房)

 p71
 歯医者はやっかいな存在であり、イギリスでもイタリアでも歯医者をどこの階級に入れたらいいか困ってしまう。知的専門職と商人の間をうろうろしている存在なのだ。
 p79
 イタリアではじつにいろいろなことを心配することができる。郵便配達人はジーノの友達であったので、ジーノが愛するリリアが、ジーノの恋敵キングクロフト氏に窮状を訴えた手紙は、キングクロフト氏に届くことはなかった。
 p80
 妻に男の子を産んでほしかったジーノは、教会なんか行ったことがないのに聖デオダータ教会にロウソクを奉納した。困ったときはいつも信仰心が厚くなるのだった。イタリア人にとって、恋愛などは暖かい太陽とか冷たい水といったような、たんなる物質的些事にすぎない。男の子をもうけることは「われ存続す」というという不死の願望を叶えることなのだ。
 p106
 イギリス人のフィリップは母親を恐れてはいたけれど、心から尊敬しているわけではなかった。母の人生は無意味な人生だと思っていた。あの駆け引きや、うそや、絶えざる抑圧は、一体なんの役に立つのだろう。それで誰かが幸せになったりするのだろうか。いや本人でさえはたして、幸せになれるのだろうか。・・・虞美人草のヒロイン藤尾の母そのままの性格作り。この作品の出版は一九○五年、虞美人草の出版は一九○八年。英語の達者な漱石は読んでいたのだろうか。理解できないことにぶつかると、たとえそれが高邁な理想や親切な行為であっても、あれは偽善だといって片付けるフィリップは小野さんにいくらか似ている。とはいっても、誰にも似ていない性格の創造などできないが。
 p118
 「イタリア人は、イギリス人には地獄のようなこんな真夏の暑い日に、外で何をしているの?」「イギリスにはないカフェがあるのさ。牢屋も、劇場も、教会も、城壁も。景色だってイギリスでは及びもつかないさ」
 p160
 イタリア語は、恩着せがましい態度を表現するのは不得手な言語だ。どんなに保護者ぶった言葉でも、心のこもった誠実な言葉に聞こえてしまう。
 p172
 赤ん坊を抱き上げたジーノには神々しいほどの威厳があった。親がしっかりと子供に結び付けられているのである。ただし皮肉なことに、そして悲しいことに、その絆によって子供が親に結び付けられるということはない。もし子供が親の愛に対して、親とまったく同じ愛でこたえることができれば、人生からもっと多くの不幸や醜さがなくなったことだろう。
 p222
 人生は自分が思っていたよりずっと偉大だったが、ずっと不完全でもあった。努力や正義が必要だということもわかっていたが、そういうものがあまり役に立たないということもわかった。
 基本道徳を鵜呑みにする信心家ハリエット嬢は、退屈で、「よく整備されて活発に働く無用な機械」のような母親に育てられた。そのハリエットは、自分が雨の中を盗み出した赤ん坊が自分のせいで死んだことで、未消化の基本道徳に恥じて、失神し半狂乱になる。しかしそれも、二日もすると「この不幸な事故」とか「よかれと思ってしたことが裏目に出た」という言葉を口にしはじめる。母親の悪い面だけ引き継いで、都合のよくないことはすぐに忘れられるハリエットは、「事故なんだ、あなたのせいではない」との慰めを真に受けてすっかり落ち着いてしまう。母親にもハリエットにも、世界は世間体としてしか存在しない。
 p227
 ねえフィリップ、あなたは、どんより曇ったイギリスの空の下で、人生を見世物として眺めています。滑稽だとか美しいだとか言って眺めているだけです。あなたがそんなにも冷静だから打ち明けるんです。わたしの愛するジーノは太陽の下で、道路につばを吐いたりしながら大声で喋るイタリア人です。紳士でもなく、まともなキリスト教徒でもありません。善人でもないし、私にお世辞を言ったこともありません。でも、あの人は美男子です、歌好きのハンサムな顔をしたイタリア人なんです。それだけで充分なんです、とっても滑稽でしょ!