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ウィリアム・ジェイムズ 「心理学」(岩波文庫)

 翻訳者の「あとがき」にあるように、刊行後百年以上たっても一定以上読まれ続けている心理学研究の名著である。脳や神経系統の生理学方面については、今日の研究成果が著しいので、ジェームズの説はまったく読む必要はない。
 『プラグマティズム』の著者であるW.ジェームズの「おしゃべり」は本書でも甚だしい。翻訳者は 「本書が出版されて以降も心理学は多くの変化と発達を見た。しかし人性は変わらない。心理学研究者にとって、この学問の発達上本書を見過ごすことのできない理由はまさにこの点にあり、生きた人性の如実な叙述こそは、変わらぬ人性の探求者にとって本書を長く価値あるものとさせる理由でもある」 と虚心に述べている。
 本書には実験による分析的事実や大規模調査による統計的事実はほとんど登場しない。今日の心理学実験の記録に慣れた読者にとっては、この本は 「こういう演繹的叙述がまかり通る時代もあった」 ことを物語るマイルストーンの一冊なのかもしれない。ジェームズは、『プラグマティズム』で書いたアングロ・アメリカ人の自信に満ちた世界観を、今度は内側から裏づけようとしたのだろう。

 p200
 外界からの影響に時間をかけて抵抗しながら徐々に新しいものに屈してゆく、弱さと強さを併せ持つ神経組織の可塑的構造。新しい習慣の獲得は、つまるところ複合された有機物質である神経組織の構造変化に由来する。
 「比較的」安定した神経組織の均衡状態としての習慣は社会の偉大なはずみ車であり、最も貴重な旧守力を社会のなかで果たしている。習慣によってのみ漁師は冬でも水中にとどまり、百姓はきびしい労働に固着し、貧者は富者を襲うことを思いとどまる。われわれ多くの者においては、習慣によって三十歳までに性格が漆喰のように固定して、再びやわらかくならないほうが世間のためによい。
 p206
 その生涯を感性と情動のうねりに身をゆだねてすごし、何一つ具体的な行為をしない感傷家や夢想家ほど、人の性格のタイプの中で情けないものはない。ルソーが、子供は自然に従って自分で育てるべきといいながら、おのれの子を養育院に入れたのはその典型的な例である。・・・自分で演奏できず、かと言って純粋に知的に理解できるほどの才能もない人が音楽に懲りすぎることも、その性格を軟弱にさせる。
 p240
 われわれの「経験」と称するものは、われわれの注意の習慣によってほとんどが決まるものである。われわれの前に蝶が何度も現れても、昆虫学者でないものにはそれらは何も訴えない。われわれの注意の習慣は、心の選択作用が働いて、そのものに個性が与えられる世界でしか形成されないからである。美しい人には誰しも魅力を覚えるはずであるが、心の選択作用とは外見の容貌にだけ働くものではない。美しくない人でも大抵は伴侶に恵まれ、穏やかな家庭生活が営めるのは、この「選択作用」なるものの内奥に多くの分肢があることを暗示している。
 p241
 すべての推理は、対象となる現象の全体を部分に分割し、その中からそのときの必要に適ったものとなる「正しい」部分を抽出する能力に依存している。天才とは、常に正しい位置に嘴をいれ、そのときの必要が理論的であれば「理性」を、実際的であれば「手段」をというように、的確な要素をつかみ出す人のことである。芸術家は彼の作品の狙いと一致しないすべての調子、色彩、形を大胆に排除できる人のことである。
 p268
 祈祷の衝動はなぜ起きるのか。それは、自我の核心が、愛する者の心の中にある――否認されれば自分の存在はないように思われ、認められた場合は無限の満足が得られる――彼の社会的自我であり、その自我は、自分を認めてくれる唯一の「友」を内的世界の中に見出すからである。外的な社会的自我が失敗してわれわれから無くなったときに、この内的隠れ家がなければ、世界は恐怖の深淵に満ちているだろう。
 この感じ(Feeling)を最も強く持っている人がおそらく最も宗教的な人であるが、宗教的でない人でもある程度は持っている。持っていないという人は自分を欺いている。まったく持っていないのは(たとえば爬虫類のような)非群居性の動物だけである。
 p284
 健常者においては、「意識する私」と、その対象である「意識される私」を統一するものは、(時と場所を問わず感じられる)わたしの身体という「重い暖かい塊」と「親しみのある活動感」である。この二つのいずれかを感じていなければ、われわれは現在の自我を現実に感じることができない。
 p292
 分裂症者にあっては、主我(意識する私)は変化せずに客我(意識される私)が変化し、患者の現在の意識は、その記憶が誤らない限りは古い客我と新しい客我の両方を認識する。主我は矛盾した二人の「私」に操られているように感じる。
 木村 敏 氏の「時間と自己」によれば、分裂病者には、自分自身を内部から否定しようとする「未知なるもの」に対する保護幕が弱すぎて、有効な遮光が得られないタイプの人が多い。この人たちにとっては、世界はいつも自己の自覚を促す「未知なるもの」という性質を帯びて現前する。この人たちはいつも、いわば未来の先を越すという仕方で自己実現の達成を迫られ、ひとときも心休まることがない。
 一般的に言って、分裂病親和的な人は数学者や理論物理学者、哲学者や詩人、革命理論家などに多く、応用科学の研究者、実務的な才能のある人、保守的な政治家には少ないといえるだろう。医者でいえば精神科医に多く、外科系の人には少ない。

 p338(解説)
 すべての意識状態は、その周囲に既知なるものと未知なるものの半影的な“辺縁”(Fringe)領域をもっている。それが(時間の中で)重なり合うことによって、その人の「人性」は推移する。