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ハナ・アーレント 「責任と判断」(筑摩書房) 2

 道徳哲学のいくつかの問題
 p69
 真の道徳的な問題が発生したのはナチス党員の行動によってではない。いかなる信念もなく、ただ当時の体制に<同調>しただけの人々の行動によって、問題が発生したことを見逃すべきではない。そして、これらの<普通の人々>はナチスの教義を信じ続けたわけではなく、ドイツが敗北した瞬間に元の「通常の道徳性」に戻ってしまった。したがって私たちは「道徳的」な秩序の崩壊を二回目撃したことになるわけで、このことは道徳性そのものへの疑念を強める。
 p70
 こういった事態はが何なのかを語るのはとても困難である。そこにはあからさまなまでの怪物性がある。この怪物性はすべての道徳的なカテゴリーを超越している。人間の<道徳>や<倫理>に根本的な疑義を提出せざるをえない事態である。
 p75
 戦後、一般社会の人々は、イェルサレムアイヒマン』をめぐって、「わたしたちすべてのうちにアイヒマンが潜んでいる」と断言する人々がコーラスのように声をそろえた。『神の代理人』によってピウス十二世を断罪したホーホフートに向かっては「ピウス十二世に罪があるのではなくキリスト教の全体、人類全体罪があるのだ」と合唱した。奇妙なことにこの見解は、アイヒマン自身の意見とまったく同じだった。
 p84
 カント『実践理性批判』の有名な文章。「新たな感嘆と畏敬の念が高まってくるものが二つある。わが頭上なる星繁き天空と、わがうちなる道徳法則である。第一の無数の世界群の光景は動物的な被造物としてのわたしの重要性を無とする。・・・これに反して第二の光景は、英知体としてのわたしの価値を、わたしの人格性によって無限に高める。この人格性において、道徳的な法則が動物の世界から、そしてすべての感性的な世界からも独立した生命を、わたしに開示するのである。」したがって、「ある行動が人間にとって義務となるのは、神が命じたからだと考えてはならない。人間が内的な義務と感じるものこそを、神的な命令とみなすべきである」というカントの道徳に関する原則は、ヨーロッパ特有の宗教上の要請なのではない。
 p94・108
 ラテン語ギリシア語もフランス語も、良心(コンシャンス)という語は善悪を知り・判断する能力を指すのではなく、わたしたちが意識(コンシャスネス)と呼ぶもの、すなわち認識する自分を自覚する能力を指していた。キリスト教の興隆後、現代になってはじめて、私たちが報いの望みや処罰の恐れとは関係なく自動的に反応するはずだった、この良心(コンシャンス)を信じない世代が登場した。
 p103
 ソクラテスは推論による対話の力を信じていた。語られる文は互いに論理的に繋がりあい、「鉄と鋼の論理によって結び付けられ、誰も壊すことができなくなる」からである。
 しかし、推論のプロセス自体は終わりのないもので、どこに行くこともでき、何が善であり何が悪であるかを発見することはできない。しかも議論する身体は消滅するもので、つねに変動するものである。
 ここにおいてプラトンソクラテスと袂を分ち、消滅することのないイデアによって不可視の「真理」を認識しようとする。「法律」は対話による説得に代わって「書き下ろし」によるイデア実現を提案したもので、プラトンの初期の対話編はソクラテスの信念に対する反論の試みとして読むことができる。
 p120
 孤独とは、沈黙のうちでみずからとともにあるという、存在のあり方である。群集のうちで「孤立」しているのが、「孤独」よりつらいのは、内なるもうひとりの自分とともにあることも、別の自己と話し合える友とともにあることもできないからである。
 p122
 ソクラテスは、人がいかにして内なる自らと語り合うかを教えることで、アテナイの人々をよりよくすることができると信じていた。このソクラテスが教えた方法は、他人をいかに説得するかという弁論家の方法とは違っていた。この内なる自らと語り合う能力を失うことは、すなわち人格を構成する自己を失うことにほかならない。
 p133
 ナチスの犯罪者の裁判で困惑が生じたのは、犯罪者たちが人格を構成する自己を自主的に放棄していたことだった。彼らは自分から積極的に行ったことは何もないこと、善にせよ悪にせよ、いかなる意図もなかったこと、たんに命令に従ったことを繰り返し強調して処罰に抗議した。
 言い換えると、犯された最大の悪は、誰でもない人によって、すなわち人格であることを拒んだ人によって実行されたのだ。
 p142・148
 人間には自分の意志することをなす強さがないために、イエスは姦通者、娼婦、盗人、徴税人の多くの罪と違反を許し、微罪にしか問わない。しかし当時の会衆全体を(ナチのような)悪しき方向に導く罪にたいして、イエスは過激だった。それは信じるべき良心や精霊に対する罪であり、(アイヒマンのような)「野の毒麦」である悪人は「石臼をつけて海に沈めるべき」であるとした。