アクセス数:アクセスカウンター

夏目漱石 「坑夫」(岩波文庫)

 p69
 いい身分の親を持った自分が窮して坑夫になるという切羽詰まった時でさえ、自分は赤毛布一枚の浮浪者よりは上に見られたいという虚栄心を持っていた。泥棒に義理があったり、乞食に礼式があるのも全くこの格なんだろう。
 p70
 世間が、心は固形体だから、去年も今年も虫さえ食わなければ大抵同じもんだろうくらいに考えているには弱らせられる。そういう呑気な了見で人を自由に取り扱うの、教育するの、思うようにしてみせるのと騒いでいるから驚いちまう。
 p71
 一人で落ちぶれるのは二人で落ちぶれのよりも淋しいもんだ。もし死んでから地獄へでも行くようなことがあったら、人のいない地獄よりも、必ず鬼のいる地獄を選ぶだろう。
 p83
 自分が自分の駆け落ちに不相当なありがたみを付けたというのは、中以上の家庭に生まれた自分の不経験からして、さほど大げさに考えないで済むことを、さも仰山に買い被って、一人でどぎまぎしていた事実を指すのである。
 p88
 むやみに他人の不信とか不義とか変心をとがめて、万事万端向こうが悪いように騒ぎ立てるのは、立体国から逃げ出して平面国に籍を置いて、活版に印刷した心を睨んで旗を揚げた人たちである。
「活版に印刷した心」とは、活字(理屈)で説明できるような、平板で、現実離れのした心、の意味らしい。初めて聞いた。
 p215
 かように水平以下に意識が沈んでくるのは、浮世の日が烈しすぎて困る自分には、東京にも田舎にも居り果せない自分には、煩悶の解熱剤を頓服しなければならない自分には、神経繊維の過度の刺激を散らさなければならない自分には、必要であり、願望(もう)であり、理想である。・・・だからこの自覚はその最も淡(うす)い生涯の中に、淡い(うす)喜びがあった。
 p222
 自分はいままで浮気に自殺を計画したときには、短銃や華厳の滝で人のほめてくれるように死んで見たいと思っていた。便所や物置で首をくくるのは下等だと断念していた。その虚栄心が、梯子から手を離しかけた最中に首を出した。それくらいだから、相手もなかなか深い勢力を張っていたに違いない。もっともこれは死んで銅像になりたがる精神と大した懸隔もあるまいから、普通の人間としては別に怪しむべき願望でもないだろう。
 p237
 一万人の坑夫が悉く理非人情を解しない畜類の発達した化け物と思いつめたとき、「自分」は一人理非人情を解する飯場頭の安さんに逢う。この人に逢ったのは全くの小説(でしか起こらないような出来事)である。夏の土曜に雪が降ったよりも、坑のなかで安さんに説諭されたほうが、よほどの奇蹟のように思われた。地下何百尺、世から、人から、歴史から忘れられた二人が涙を流す場面があろうとは・・・。」
 「門」や「虞美人草」や「彼岸過ぎまで」とおなじように唐突なエンディングが始まるのかと思っていたが、「自分」は坑夫にはならず、飯場の帳簿付けという牢名主の子分のような身分に落ち着く無難なものだった。
 中村真一郎によれば、『坑夫』は主人公の意識の流れと行動の変転を追おうとする「実験小説」だという。晩年の『明暗』のような「意識の流れ」がこの作品に表現されているかどうかはともかく、この種の小説では、本来、外的な「ドラマ」は起きる必要のないものであり、「ドラマ」の原因も結果も主人公の内面だけに生起するものである。とすれば、主人公の「自分」が、顔つきも頭の中身も「自分」と共通項のある飯場頭の安さんに出逢い、身の上話をしたとたん、石炭堀り仕事の地獄から帳簿係に引き上げられるのは、主人公の外面に「ドラマ」をつけ加えて無理やり当時の新聞小説読者を安心させたことにならないか。漱石は、教養ある青年が炭坑夫にまで「堕落」した事情を詳しく書いていないのだから、地獄の底で偶然善人に出逢って救済されるのでは、低回趣味と評されても仕方ないかもしれない。このような「偶然」は小説ではタブーのはずである。