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東 浩紀 「一般意志2.0」(講談社) 1

 p23-4
 「一般意志」とは、それを自身の『社会契約論』の中で記したルソーの時代には、(個人つまり特殊意志の対概念であると今でも誤解されていることの多い)まったくの虚構、『言語起源論』における「詩人の言語」や『人間不平等起源論』における「野生の人」と同じような、議論を進めるために必要なひとつの仮定でしかなかった。彼はおそらくは、その「一般意志」なるものが目に見えて触れるようになることなど、想像もしていなかっただろう。
 しかし、それから二世紀半の時間が経ち、わたしたちはいまや、ルソーのその仮定を、神秘主義ぬきで、技術的に「実装」することができる新しい技術を手に入れている。筆者がこれから語ろうとするのは、そのような夢である。一般意志という「夢思想」が、情報技術という「材料」を用いていま新たに紡ぎ出しつつある近代の夢を可視化すること――そんなふうに表現してよいのかもしれない。
 p37
 ルソーが考えた社会契約は、(一般通説として誤解されているような)支配するものと支配されるものの関係を規定するものではない。それよりも前の地平で、ひととひとを「結合」させ、支配者も被支配者もともに属する共同体を生み出すためのものだった。一般意志は、その共同体全体の意志を意味している。したがって、具体的にだれがその意志を担い、統治を実現していくのか、つまり権力をだれが持つべきなのかの選定は、一般意志が生まれる次の段階となる。それゆえ『社会契約論』は、最初に社会契約があり、その結果として一般意志が生まれ、最後に統治機構が設立されるという順序で書かれている。
 p38-9
 主権とその政府の区別は、ルソーにとってなぜ重要だったのだろうか。それは、その区別こそが、人民に対して、既存の政府を転覆する権利、いわゆる「革命権」を保証するものだったからである。
 主権とその政府を同一化すると、(論理の当然の帰結として)社会契約説は政府の転覆を正当化できない。しかしルソーの構想においては、人民が社会契約で生み出したのはあくまでも一般意志であり、特定の政府ではないので、“おまえはこいつが王だと知ってすべての権利を委ねたのだろう、ならば文句を言うな”という話にはならない。
 ルソーにおいては政府は一般意志の執行のための暫定的な機関に過ぎない。だから、人民は何時でもその首をすげ替えることができる。「たまたま人民が世襲の政府を設ける場合、それが一家族による君主制であろうと、市民の一階級による貴族政であろうと、人民が行ったことは決して約束ではない。それは人民が統治機関に与えた仮の形態に過ぎないのである。」――この主張がフランス革命を準備した。
 p31・58
 シミュレーションとゲーム理論の手法を用いた、集合知に関するスコット・ペイジ(アメリカ人)の二つの定理がある。
1.多様性予測定理=構成員個人の予測の多様性が増すほど、群集の予測は正確になる。
2.群集予測は平均予測を超える=群集の予測は構成員の平均的な予測よりも必ず正確になる。
 多様性予測定理に関連して言えば、擬似的な二大政党制しか実現していない日本でマニフェスト選挙を行うことは、小泉純一郎のような独断専行型や、民主党の「政策フェチ的な政治」を生むことにしかつながらないことは、これまでの政治が証明している。「公約」とは「守らなくてもいい約束」のことと思っていたのだが、「マニフェスト」と言い換えたとたんに「最低限の政治倫理」の意味に変わるとは、しかも小沢一郎のような人間が「天下国家を考えることだけが自分の仕事である」と言い出すようになるとは、日本の政治がいかに「思想」を欠いた擬制でしかないことの追認である。
 p62
 ルソーは一方では、絶対の個人主義、主体の自由を訴えたロマンティストだった。しかし他方では、一般意志の特殊意志に対する優越を主張する革命家でもあった。つまり彼には、個人の優位を主張する文学者のそれと、社会の優位を主張する政治思想家のそれの二つの顔があった。世上ではそう言われる。しかし、そこに何も矛盾はない。二つの顔は共に、人間の秩序(コミュニケーション)から自由になる、モノの秩序(一般意志)にのみ基づいて生きるというルソーの理想に同じように奉仕するものだったからである。