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東 浩紀 「一般意志2.0」(講談社) 3

 p89・9・91
 以下、ルソーに唱導された一般意志を一般意志1.0と呼び、それを総情報記録社会の現実に照らして捉えなおし、アップデートして得られた概念を一般意志2.0と呼んでいく。
 一般意志1.0は現実には実在しない。それは抽象的な理念に過ぎない。けれども一般意志2.0は実在する。理念でも物語でもなく、具体的なデータベースとしてどこかのデータベースに格納されている。
 一般意志2.0へのアクセスは、いまのところいくつかの民間企業に占有されている。しかしルソーの理想を突き詰めるならば、それは原理的にはあらゆる市民がアクセスできるようにするべきだ、という結論になる。なぜならわたしたちは、グーグルやツイッターなどによって、自分が表出した行動や欲望について、だれもがその集団内での位置を近似的に確認できるようになっており、そのことは、やや極端にいえば、わたしたちは 「各人がすべての人と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、自由なまでいられる」 というルソーの言葉に近い状態にいることを示すからだ。そしていまわたしたちは、ルソーの思想と現代の情報技術をつなぐことで、新しい統治のかたちも、抽象的にではあるが、想像することができる。
 p93
 グーグルやツイッターは、新しい政治参加、新しい行政参加のあり方を提案しているだけではない。わたしたちがこの二世紀の間に作り上げてきた統治機構そのもの、国のかたちそのものへの原理的な疑義を突きつけている。
 p105・7・8
 従来の社会思想は、政治とはなによりもまずコミュニケーション、とくに言語を介した意識的コミュニケーションだと考えてきた。その前提に立って、現代社会が直面している政治の危機、民主主義の危機について、一般の読者にはわかりにくい「熟議」、アクロバティックな多くの議論が重ねられてきた。それにしても、八ツ場ダムの建設再開はどんなサーカス論議を経て決まったのだろう。
 しかし、あらためて指摘するまでもなく、現代人はもはや政治に関心を持たない。社会全体を見渡そうとする意欲が衰え、みなが私的な関心の中に閉じこもってしまっているため、健全な政治や公共圏が成立しない。つまり思想家たちが理想だと考える政治的コミュニケーションはもはや成立していない。ここまではだれもが知っている。それではその状況をいかに変えればよいのか。
 問題は、個々の政治学者の複雑な議論そのものではなく、「私的な利害や共感を乗り越えたところに公的な倫理や政治の可能性が宿る」とする十八・十九世紀的な発想そのものにある。そしてその発想をいったん捨て、私的・公的/非他者・他者を分割する抽象的な枠組をいったん捨てれば、現代社会を総情報記録社会と捉えなおしたところで出てくる一般意志2.0の思想は、必ずしも政治や公共性に反するものではなくなることがわかる。