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夏目漱石 「文学評論」(岩波文庫)上巻 1

 p28
 創作に失敗した者ばかりが批評家になるということは事実ではない。馬に乗りそこなった者ばかりが自転車に乗るといわれたとて、自転車乗りが面目を落とすことはないはずである。 小林秀雄の東大時代の創作は読むに耐えないが、小林の例えば一連の『ドストエフスキー論』ほど、創作に“成功した”日本の近代小説家が、数人を除いて、「日本語をもって思索することにいかに怠惰であったか」を教えてくれるものはない。小林が言うように、自己を語ろうとする日本の近代小説家とは逆に、「ドストエフスキーにとって、上手に語れる経験なぞは、経験でもなんでもない。はっきりと語れる自己などは、自己でもなんでもない」からである。
 p44
 日本の文学を評するならともかく、英国の文学を評するのは英国人の言うほうが間違いはないという考えがある。ここには、素人が呉服の価値を解せぬため、呉服屋の番頭の言うことを一も二もなく信ずるがごとき観がある。
 p62
 おれは社会の影響をこうむらないという人は、自分の吸っている空気が自分に影響がないと主張するような者である。
 p71
 英国は「神秘的」な臭味を嫌う。事実を愛する。それだから宏淵縹渺の趣がない代わりに着実適切の風がある。(アメリカはイギリスのまさに嫡出子である。)この神秘を嫌うということは一般に英国人の臭味であって同時に十八世紀の風ではないか。事実を愛するということも同様のことではあるまいか。しかもこの気風が当時の文学に現れてはいるまいか。
 p81
 神がありがたいと一生懸命に思い込んだときには、神そのものの属性とか権限とか何とか面倒なことを言い出すものでない。聖書を取ってきてこれを理屈的に解こうとするのが、既に聖書の勢力がなくなったいい証拠である。単に教徒の頭脳を満足させるのみである。神がありがたいと思うのは頭脳のなせる業ではない。なぜありがたいかなどはどうでもいい。神ならぬものを脳のある部分が見誤り、それが脳の別の情動系に伝わって起きる感謝や恐怖の反応であるとしてもかまわない。現に神や仏ははっきりと見えている。信心深い老婆や聖人坊主には現実そのものである。
 p126
 表面を作る者を世人は偽善者という。しかし、作りたくはないのだけれども、外部の圧迫のためにやむを得ず、体裁を作るということがある。この体裁が百年も二百年も続くと、これは犯すべからざる形式となる。旧幕時代に武士が金を軽蔑したようなものである。
 p146
 人間の徳儀とか世の掟とか称うるものの三分の二は、自己(のアイデンティティを人に認めてもらう切なさのあまりに、辛うじて保存せらるる場合が多い。わざわざ仮面をつけての舞踏の会は、世の中を暗くする代わりに自己の顔を暗くして、煌々たる燭光の下に何の何某という姓名を消し、道義心を失せがちにした、すこぶる巧妙を極めた娯楽である。
 p168
 十八世紀の下等社会は当時の教育状態からいってほとんど書物を手にしない。中等社会になると子弟が泥棒の伝記などを読むばかりである。
 p178
 あのジョンソン博士が庇護者にあてた痛烈な手紙が残っている。「庇護者とは人のまさに溺れんとする折を冷眼に看過し、漸く岸に泳ぎ着きたる折を見計らって、わざと邪魔ともなるべき援助を与えらるるものに候や。小生の努力に対する御推賞は感謝の至りに不堪ず候。ただその遅きに過ぎたるを憾みとするのみに御座候。今と成りてはありがたく頂戴も出来かね候。・・・」十八世紀のイギリス貴族は、このような雑言を浴びせられても、あくる日の夜会で「貧乏ジョンソンがこんな手紙を寄越してきたよ」と、参会者と笑いあうような人種だったのだ。