アクセス数:アクセスカウンター

オルハン・パムク 「イスタンブール」(藤原書店)

 p25
 オスマン帝国の夕陽はすでに沈んでいたが、イスタンブールの大家族の食事どきの語らいや笑いは、幸福とは家族や大勢と分かち合う信頼、気楽さであるという間違った印象を幼いわたしに与えた。しかし一緒に笑い合い、楽しんで長い食事をともにした親類が、ときに財産問題でいかにむごく振舞うかを、子供ながらすでによく知っていた。
 p44
 頭のおかしい皇子、阿片常用者の皇族、屋根裏に囚われた子供、謀られたスルタンの娘、流刑にされた、あるいは撃たれたパシャなどの物語によってオスマン帝国は崩壊し、散って行った。
 この死んだ文化、滅びた帝国の憂愁はいたるところにあった。西洋化の努力とか近代化の欲求というよりはむしろ、崩壊した帝国から遺された痛ましい思い出から救われたいとあわてているかのように、わたしには見えた。
 p72
 子供のときですら、家族と一緒にドライブに出かけた折の、ボスポラス海峡の真の愉しみのひとつは、かつてオスマン・トルコの文明と文化が西の影響下に入ったものの、独自さと力を失うことがなかった非常に豊かな一時期があったということを見ることであった。
p117
 スーフィーイスラム神秘主義)的見解によれば、ヒュズン(憂愁)はこの世でアッラーのために何かを充分にできなかったことからくる、充分ではないとの思いから出ている。さらには、そのヒュズンが自分には充分ではないということも不足感の源である。
 充分に憂えることができないことを憂えるという自分の理屈を徹底することから、イスラムの文化ではヒュズンに恒常的に敬意が払われる。この感情は日常生活だけでなく詩と、特に音楽において支配的である。ヒュズンはイスタンブールにおいて人生観や精神状態を語る基本的な言葉であり、生に対して否定的であると同時に肯定的な感情である。
 p119
 ヒュズンには詩的な語や感情としてではなく、絶望的な恋に囚われた若者の病を表わす側面もある。アリストテレスに時代から残るメラニアコル(メランコリー=黒い胆汁)という語は、非常に広い分野にわたる黒い苦痛を指している。ヒュズンは何百万もの人が、都市全体がともに感じるあの暗い感情である。(p121からは6頁にわたって、イスタンブールの痛切なヒュズンが何百通りもあげられる。)
 p132
 イスタンブールの住民にとって、ヒュズンは矜持である。共和国となったトルコの近代詩もまたヒュズンを、避けられない運命とか、人間の魂を救い、深みを与える感情のように考えている。この感情は詩人と生活の間にある曇りガラスなのであり、人生のヒュズンを含む投影は、詩人にとって人生そのものより魅力的である。
 p133
 ヒュズンはイスタンブールの住民にとってブレーキになり、同時にブレーキの言い訳になる感情である。大衆の価値観に対して、あらゆる種類の創造力を摘み取り、少しのことに満足し、誰しもに似ていること、目立たないことを美徳とする。(ある部分では日本人の羞恥心に似ている。)
 p142
 イスタンブールの住民は、頭の片隅では、いくら西洋人のように書いても、彼らほど独創的にはなれない事をわかっていた。なぜならフランス文化から、近代文学という概念とともに、真正性、独自性のような概念をも習得してしまっていたからである。
 p229
 幼いわたしは、貧しい人たちは、アッラーをあまりに信じているので彼らは貧しいままなのではないかと思うのだった。
 p246
 オスマン・トルコの欧化主義者の最後の世代たちは、遺された資産を資本に変えることができない。 それは、これらの古い人たちが 「新しい無教養な人た」 と一緒の生産や商売をするのはもってのほかで、同じテーブルで茶すら飲めない、と考えているからである。
 これらの、大部分は悲しげで、人間よりも犬を愛しているのがよくわかる古い人たちは、資産を守るために雇った弁護士に騙されていることに大抵は気づきもしない。 そしてその子供たちは、フレンチスクールで神父を殴ったり、何年か後にはスイスの精神病院に入ったり、その一年後には自殺するような「むずかしい」人間になるのだった。