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ポール・ヴェーヌ 「“私たちの世界”がキリスト教になったとき」 (岩波書店) 1

 四世紀前半、キリスト教の爆発的拡大をみちびいたコンスタンティヌスという皇帝はどんな男であったのか。政治的狡知に長けていた彼は、当時圧倒的だった異教のカウンターバランスとするためにキリスト教を公認したのか。それとも、帝位にある超越者にとって宗教という文化の上部構造は、政治という下部構造の装飾に過ぎないのだろうか。・・・そんな興味から読み始めた。
 翻訳はよくない。原文は多分、フランス語特有の、一見簡潔そうに見える短文の中に複雑な概念が語られるペダンティックな文章である。そのフランス語がそのまま日本語に移されている。適切な接続語が省かれていたり、過去未来の時制が日本語では単純未来になっていたりする。「そこにこそ慣習的な信仰の今日的な減少が由来する(p132)」というようなセンテンスも多くあって、読む人に忍耐力と寛容を要求する。(全体二百七十ページ中、原注が六十ページというのも著者のペダンティシズムを表わすかもしれない。しかもたいして役に立たない。)ただし、後半の「イデオロギーは存在するか」以降の現代ヨーロッパ文明論、その二重道徳と偽善の指摘は秀逸である。

 p6−9
 西暦三一二年十月二九日、コンスタンティヌスが僭帝マクセンティウスをミルウィウス橋に破ったときから、キリスト教はあらゆる仕方で優遇される宗教になった。
 しかし実際的だったコンスタンティヌスは、教会を統合した君主でありながら、公的には伝統的な多神教の異教徒してとどまった。もちろん異教徒は多数派だったため弾圧は行わなかった。そのいっぽう公的文書の中では、異教が軽蔑すべき迷信だと繰り返し言っている。
 異教徒の大衆は数的には圧倒的だったから、いままで通り宗教には無頓着に、皇帝の気まぐれにも無関心に生きることができた。公共の安寧のためにはそのことが最善の方法だったからである。
 ただし彼は個人的にはキリスト教徒であったから、例えば皇帝崇拝のような、彼の人格に関わる領域においては異教を許さなかった。一方で、臣下がキリスト教徒である場合は、公的な場で果たさざるを得ない異教の儀式の義務を免除してやった。コンスタンティヌスはとても複雑な、誠実といってもいい男だったのである。
 p14
 コンスタンティヌスは西暦三一五年に、人民による在位十年の大々的な(異教的)祝祭を許可したが、その際いかなる動物の生贄も禁じた。異教の儀礼はそのときをもって“消毒”された。
 p20
 キリスト教では庶民の女は家庭や夫婦間の不幸を聖マリアに話しに行くことができる。しかしそんな話をヘラやアフロディテにしたとしたら、女神は「そんなどうでもよいことを話しに来るとは、この百姓女はどういう了見なんだろう」とせせら笑うに違いない。キリスト教と異教はこれほどに隔てられている。
 p22
 当時の住民全体のレベルを考えると、愛の宗教であるというキリスト教の「エリート性」は、広汎な信者獲得にはふさわしい長所ではなかった。だからこの宗教が勝利するには、固有の長所よりは「帝国」と「教会」の権威がずっと重きをなしていた。
 p24
 神、キリスト、後には聖母マリアも加わって、二つも三つも愛の対象があるのだからキリスト教は文字通り多神教であり、(プロティノスなどの)新プラトン主義者から見ればそれは大衆小説みたいなものでしかなかった。しかしこの小説は哲学的であり、すべての異教の神々のはるか上方に位置していた。
 p25
 一人のキリスト教徒が、自分が神の前に身を置いているのだと想像するとき、彼には自分がたえず見られ、愛されていることがわかっていた。これに対して異教の神々たちはまずもって自分たちだけのために生きていたのである。