アクセス数:アクセスカウンター

岩井克人 「二十一世紀の資本主義論」(ちくま学芸文庫) 2

 p22−4
 市場経済の中で、人びとは公共の利益を促進しようと意図する必要などない。自分の安全と利得だけを考えればよい。私的な悪は公的な善となる。・・・アダム・スミスの「見えざる手」の理論は、世にある数少ない真の理論である。
 ただひとつ、アダム・スミスの理論は投機の問題だけは考えることがなかった。というよりは、投機というものを市場の通常の「見えざる手」の単なる延長と考えた。自由主義経済学の大立者でダーウィニストでもあるミルトン・フリードマンも同じである。フリードマンによれば、日本の土地バブルもリーマンショックも非合理的な慣習・制度や政府の恣意的な介入・規制のせいであるとされる。小泉純一郎ロナルド・レーガンもマーガレット・サッチャーフリードマンの信者だった。
 p30−4
 アダム・スミスやフリードマンの投機理論は、投機家は生産者と消費者の仲介者であるという牧歌的な想定の上に立っている。しかし事実は、得票が多かった美人に投票した新聞読者に多額の賞金を与えるという、「投機的な」趣向を凝らした「新聞紙上美人コンテスト」に似ている。
 そのコンテストで選ばれる美人とは「その顔が美人であると平均的な読者が予想すると平均的な読者が予想する・・・・・と平均的な読者が予想している」美人なのである。そこにあるのは美人という実体ではない。「予想の無限の連鎖」だけである。
 投機家が参加する市場は、多数の専門的で「合理的」な投機家が短期的な利益を求めて、お互い同士で売り買いする真に「投機的な」市場である。そこでは投機家たちは将来のモノ不足やモノ余りの予想に専念するのではない。彼らは、美人コンテストで賞金を稼ごうとしている読者のように、すなわち、ほかの投機家たちがモノ不足やモノ余りを「どう予想しているのかを予想し」、一歩でも先んじて売り買いすることに全知全能を集中している。「経済専門家たちの予想の無限の連鎖」が、そこで起きていることのほとんどすべてである。
 だから、そこで成立する価格は実際のモノの過不足状態とは大きく乖離し、「予想の無限の連鎖」のみによって支えられてしまうことになる。ささいなニュースやあやふやな噂などをきっかけに突然乱高下を始める理由はここにある。たとえ非合理的な慣習や制度がなくても、恣意的な政府の介入や規制がなくても、市場には本来的な不安定性がつきまとっているのである。東北大震災の直後には復興基盤産業の強化などに関するこの「予想の無限の連鎖」が働き、円が大きく買われて、日本政府は珍しく強い不快感を示した。G7中央銀行がいっせいに市場介入し、直後に円は震災前の水準まで戻した。
 p35−6
 時間の節約やリスクの回避は消費者・生産者を問わず、誰にとっても「価値」である。このような「価値」あるものは、市場で売り買いされる商品となる。それが金融商品であり、この商品を市場で売り買いしているのが専門的な投機家である。
 すなわち金融市場とは、実体的な経済活動が必然的に含んでしまう投機的要素を切り離して商品化し、それを消費者・生産者から専門的な投機家へと転嫁していく仕組みといえる。実体的な経済市場の円滑な機能のためには、専門的な投機家の参入が大前提となっているのである。
 p56
 恐慌のとき、ひとびとは具体的な商品よりも一般的な交換手段である貨幣そのものを欲するようになる。それは「貨幣は誰もがそれを未来永劫にわたって受け入れてくれる」という「予想の無限の連鎖」があるからにほかならない。だから恐慌とは市場経済にとっては真の危機ではない。
 市場経済にとっての真の危機は、この「予想の無限の連鎖」が崩壊してしまうハイパー・インフレである。誰もが貨幣による交換を受け入れなくなり、貨幣は単なる紙切れや金属片や電磁波に成り下がる。