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國分功一郎 「暇と退屈の倫理学」4/7(朝日出版社)

 暇と退屈の経済論・疎外論
 p135
 非正規雇用の拡大が大きな問題になっている。だが非正規雇用は、単に誰かがズルしているから生み出されたものではない。いかに高品質のケータイでもクルマでも、同じ型である限りすぐに売れなくなるという、現代社会の消費(=生産)スタイルが非正規雇用問題を自分で要請してしまっているのだ。
 つまり、モデルチェンジが激しいから機械に投資できず、したがって機械にやらせればいいような仕事を人間にやらせなければならない。売れるか売れないかが分からない賭けを短期間に、何度も強いられるから、安定して労働者を確保しておくことができない。労働者を会社に都合のいいように鍛え上げていくというプロセスすら、もはや成立しないのである。
 p136
 いまの消費(=生産)スタイルを回している消費者と生産者は、自分たちで回しているこのサイクルを自分の手で止められなくなっている。私たちはなぜモデルチェンジしなければ買わないのか?モデルチェンジすればなぜ買うのか? 「チェンジした」という観念だけを消費し、「モデル」そのものを見ていないからである。モデルチェンジによって、退屈しのぎと気晴らしを与えられることに慣れきっているからである。
 そもそも自分の行為そのものの理解が決定的に不足していたのである。消費者は要するに退屈していて、パスカルの言うような気晴らしを求めているにすぎない。したがって、「差異が消費される」云々といった話をうんざりするほど書いた「消費社会論者」たちは、退屈をどう生きるか、暇をどう生きるかという問いこそ立てられるべきだということを、まったく理解していなかったのである。
 p152
 現在では「労働」までもが消費の対象になっている。労働はいまや「忙しさ」という価値を消費する行為になっているのだ。一日に十五時間も働くことが自分の義務だと考え、それをテレたような、自己満足したような顔でしゃべっている社長や重役の「わざとらしい」忙しさがいい例である。
 ここからさらに興味深い事態が現れる。労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象になる。自分が余暇において、まっとうな意味や観念を消費していることを示さなければならないのである。「自分は余暇を自由に消費できるのだぞ」といった証拠を提示することをだれもが催促されている。
 だから余暇は、もはや活動が停止する時間ではない。それは「非生産的活動を消費する」時間である。何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。
 p164
 かつて「労働者の疎外」ということが盛んに論じられたが、ある時からむしろ積極的に遠ざけられる概念になってしまった。この概念がどうも危険だと思われるようになってきたのである。どういうことだろうか?
 疎外された状態は人に「どこかおかしい」、「人間はこのような状態にあるべきではない」という気持ちを起こさせる。ここまではいいだろう。ところがここから人は、「人間はそもそもはこうでなかったはずだ」とか「人間は本来はこれこれであったはずだ」などと考え始める。
 p165
 つまり、「疎外」という語は、「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」、要するに「本来の姿」というものをイメージさせる。「疎外」という言葉は人に、本来性や「本来的なもの」を思い起こさせる可能性があるのだ。
 「本来的なもの」は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。なにかが「本来的なもの」と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。
 それだけではない。「本来的なもの」が強制的であるということは、「本来的でない人」は排除されるということである。何かによって人間の「本来の姿」が決定されたなら、多くの人にその「本来の姿」が強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間にあらざるものとして排除されることになる。
たとえば、「健康が人間の本来の姿だ」という「本来性」のイメージが受け入れられたなら、さまざまな理由から健康を享受できない人間は非人間として扱われることになる。これほどおぞましいことはない。ナチス支配下のドイツで排除されたのはユダヤ人だけではない。肺や心臓に疾患を持つ人たちも「本来的には」健康なゲルマン民族にあらざるものとして、強制収容所送りのリストに載ったのだった。
 p178-9
 有名なルソーの「自然に帰れ」というスローガンは、「自然状態」がよいものであるという価値判断を含んだものではない。多くの人が読み飛ばしているのだが。
 ルソーは自然状態について「もはや存在せず、おそらくは少しも存在したことのない、多分将来も決して存在しないような状態」と述べているだけである。
 自然状態を、「人間が戻っていけるすばらしい状態」と勘違いすることは、経済学が完全競争をモデルにして話を始めるのに似ているかもしれない。完全競争は理論的なフィクションであり、そんな状態は存在しない。そして(おそらく)経済学者もそれが存在するとは思っていない。それをモデルとして立てた上で、そこからのズレにおいて現実を描き出そうとするのだ。
 しかし、純粋なモデルというのは「本来的な」モデルと誤解されやすい。完全競争こそが望ましい状態なのに、何らかの介入でそれが乱されている・・・と。ルソーはただ、文明人の「みじめな」姿やその疎外を、あくまでモデルに過ぎない自然状態というモデルを通じて描いているだけなのだ。ひとことでいえば、そこに現れているのは、“本来性なき疎外”というきわめて重要な概念である。