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國分功一郎 「暇と退屈の倫理学」6/7(朝日出版社)

 p292-3
 盲導犬を一人前に育て上げることの難しさはよく知られている。訓練を受けた盲導犬がすべて立派な盲導犬としての役割を果たせるようになるわけではない。なぜ難しいのか?
 それは、犬が生きる環世界のなかに、犬の利益になるシグナルではなく、盲人の利益になるシグナルを組み込まなければならないからである。その犬の環世界を変形し、人間の環世界に近づけなければならないからだ。その犬がもともと有していた環世界では気にもとめなかったもの――たとえば歩道に突き出た高さ一メートルほどの鉄柵――に盲人がぶつからないよう、わざわざ気を配るように訓練しなければならない。これが大変難しいのだ。
 この例が意味するところは非常に重要である。盲導犬は訓練を受けることで、犬の環世界から人間の環世界に近いものへと移動できる。それは困難であるが、不可能ではない。完璧に近い盲導犬はたくさんいるのだから。
 この環世界を移動する能力は、生物が自らの環境に適応すべく、その本能を変化させていく能力のことと言ってもいい。適応できなければ死滅することもある。こうしてみると、いま生きているあらゆる生物には環世界の間を移動する能力があるというべきだろう。
 p284
 当然ながら、人間は他の動物とは比べものにならないほど容易に別の環世界に移動する。著名な音楽家やノーベル賞クラスの学者が、いったん政治経済方面の環世界に入ると、まるで愚鈍な人に見える発言をすることがある。こうした天才たちも、環世界間移動能力に関しては一般人以下のことがあるのかもしれない。
 p286
 では、ここから退屈について考えるとどうなるか?人間は多くの環世界を生きることができ、その環世界をかなり自由に移動する。このことは、人間が相当に不安定な環世界しか持ちえないことを意味する。人間は容易に一つの環世界から離れ、別の環世界へと移動してしまう。一つの環世界に浸っていることができない。おそらくここに、人間が極度に退屈に悩まされる存在であることの理由がある。私たちはいまの進化段階にある以上、一つの環世界にとどまっていられないのだ。
 p287-8
 環世界を容易に移動できることは人間的「自由」の本質なのかもしれない。しかし、この「自由」は環世界の不安定性と表裏一体である。何か特定の対象に浸り続けることができないから、人は退屈するのだ。環世界を相当な自由度を持って移動できるからこそ、いつまでたっても、何に対しても退屈するのである。
 p290
 ここから、人間と動物の区別がもつ意味をも問い直すことができる。この区別とは、多くの場合、人間がどうして動物よりも「高い」地位にあるのかを説明するためのものである。
 しかし退屈と環世界をめぐるこれまでの議論から、この上下関係をひっくり返す価値判断が可能になる。なぜなら、動物は、一つの環世界に浸り続ける、人間に比べて相当に高い能力を持つということができるからだ。