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國分功一郎 「暇と退屈の倫理学」7/7(朝日出版社)

 p322-3
 哺乳類の中で人間はかなり早産である。そして出生後に、非常に不安定な生を送る。「不安定」とはここで、環世界が日に日に変化していくことを意味する。形の認識、自他の区別、言語の獲得など、人間の発達はめまぐるしい環世界の変化、新しい環世界の獲得の過程そのものである。
 保育園や学校といった集団生活の中にはじめて投げ込まれた子供は、強い拒否反応を示すことが多い。それまで乳児なりに作り上げてきた環世界が崩壊し、新しい環世界へと移行しなければならないからである。これは幼児にとってはきわめて困難な課題である。だからしばしば失敗も起こる。
 保育園や学校に入り、ひとたび新しい環世界――習慣といってもいい――を獲得したとしても、いつまでもそこに安住はできない。習慣はたびたび更新されねばならない。学年や担任が変われば、学校や友人が変われば、家族関係や同僚や上司が変われば、それまでにせっかく築いた習慣を変更しなければならない。私たちは絶え間なく習慣を更新しながら、束の間の平穏を得る。
 p326
 人は習慣を創造し、新しい環世界を獲得していく。そうすることで周囲を「自分に分かりやすいシグナルの体系」へと変換する。なぜそうするのかといえば、当人がものをできるだけ考えないですむようにするためである。四六時中まったく新しいものに出会って、そのたびに深刻に考えていては、人は生きていけない。
 人がものを考えざるを得ないのは、作り上げてきた環世界に変化が起きたときである。何か新しい要素が「不法侵入」してきてそれまでの習慣の変更を迫られる、そうしたときである。何ごとも考えないで済むように環世界を構築してきた人間としては、そのような「不法侵入」はショックであろう。ものを考えるとは、それまで自分の生を導いてくれていた習慣が多少とも破壊される過程と切り離せない。認知症患者は、住む場所や家族関係が変化すると、症状が昂進することが多い。その変化は、環世界移動能力を失った患者にとっては、新しい要素の「不法侵入」以外の何ものでもないからだ。
 p329-30
 フロイトは、人間の精神生活はあらゆる面において「快」を求める原理によって支配されていると言っている。人間の精神、正確に言えば無意識は、快を求め不快を避ける、と。ここに言われる「快」とは、「快楽」という言葉がさすような激しい興奮状態のことではない。その正反対である。基本的に、生物は自らを一定の状態に保てることが「快」である。
 だが、快原理による説明は生物全般の一般的傾向としては正しいのだろうが、人間についてはさらに説明を追加しなければならない。なぜなら、この快の状態は退屈という不快を否応なしに生み出すからである。
 人間は習慣を作り出すことを強いられている。そうでなければ生きていけない。だが、習慣を作り出すと、その中で退屈という不快を生み出してしまう。
 p335
 しばしば幸運な例外もあるだろうが、私たちは概ねこうした人間的な生を生きざるをえない。だが、人間にはまだ人間的な生から抜け出す可能性、「動物になること」の可能性がある。もちろん、人は再び人間的な生に戻っていかざるをえない。人間は習慣を求めるし、習慣がなければ生きていけないのだから。
 p356
 難解を持って有名なフランスの現代哲学者ドゥルーズはこう言っている。「私たちは、自分に強制される状況と恥ずべき妥協をし続けている。この恥辱の感情は、哲学のもっとも強力な動機のひとつである。」