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東 浩紀 「動物化するポストモダン」1/5(講談社)

 オタクたちの擬似日本
 p15
 いまから三、四○年前、日米欧などの高度資本主義社会では、「文化とは何か」を決める根本的な条件が変わった。それにしたがって文化ジャンルの中の勢力地図が変貌した。
 ロックミュージック、SFX映画、ポップアートが台頭し、LSDとパソコンが誕生し、政治、文学が失墜した。世代間の価値観に深い溝ができるとともに、多くの分野で「前衛」の概念が消滅した。「前衛」(=モダンの最前線)を気取ること自体が恥ずかしいことになってしまった。
 わたしたちの社会はこの巨大な断絶のあとに位置しており、いまの文化状況を、それまでの近代社会の延長上に安直に位置づけることはできない。たとえば、ホラーやファンタジーに支配されたエンターテインメント小説の現状を、近代日本文学の延長線上で理解しようとしても無理がくる。この断絶の存在は、多少ともまじめに現在の文化に触れている人なら、だれでも感覚的に察知できることだと思う。その常識的な直観を「ポストモダン」という言葉で呼んでいるだけの話だ。
 p17
 日本のポストモダンとは、大雑把に言えば七○年の大阪万博以降の文化的世界のことであるとしてもいいが、「オタク系文化」を抜きにしていまの私たちの時代を語ることはできない。
 このオタク系文化の特徴については、いままでも日本の伝統文化との比較で語られることが多かった。オタク文化に詳しい批評家たちには、オタクたちは作品のメッセージよりも「趣向」を読み解くことに重点を置き、そのセンスは江戸時代の「粋」と直結しているという人が多い。九○年代に始まったフィギュア造型の進化は仏像彫刻の歴史を反復しているともいう。(p31)あの坂本龍一氏すらが「この三百年、五百年ぐらいで、いまほど日本主義がトレンディな時代はないわけで、(すぐれたオタクの作品は)浮世絵以上じゃないかな」と発言している。
 p19
 しかし、じつはオタク系文化の影響はいまや広く海外に及んでいる。「魔法少女」が活躍するオタク漫画の翻訳版がパリの本屋に積まれ、香港人がコピーしたオタクフィギュアがネットオークションで高値をつけている。「オタク的な感性」が日本固有のものだという主張は、説得力を失いつつあるのが現状である。
 オタク系文化の出現は、日本独自の現象ではなく、二○世紀半ばに始まった文化のポストモダン化という大きな流れの、日本における支流のひとつとして捉えるべきである。この大きな文化潮流が素地としてあるからこそ、日本のオタクたちの作品が国境を越えて支持されているのだ。
 p20
 アニメにしろ、特撮にしろ、コンピュータゲームにしろ、これらすべてを支える雑誌文化にしろ、オタク系文化の起源は、戦後アメリカから輸入されたサブカルチャーだったという事実がある。オタク系文化の歴史とは、アメリカ文化をいかに「国産化」するか、その換骨奪胎の歴史だったのであり、その歩みは高度経済成長のイデオロギーをみごとに反映してもいる。
 オタクたちは確かに日本文化の継承者なのかもしれないが、両者は決して連続していない。オタクと日本のあいだには、アメリカがはさまっているのだ。