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東 浩紀 「動物化するポストモダン」3/5(講談社)

 p56
 大きな物語の失調とその補填というメカニズムはもう少し広い視野の中にも見ることができる。五○年代までの世界では近代の文化的論理が有力であった。そこでは大きな物語がたえず生産され、教育されていた。その一つの現われが学生の左翼運動だったわけだ。
 しかし時代は六○年代に大きく変わり、七○年代以降は、大きな物語を認めないポストモダンの文化的論理が力を強める。
 ところがこのような変動は、ちょうどその時期に大人になった人々に、かなりの精神的負担を強いることになった。彼らは、普通の社会人としては、小さな物語がまったく対等に林立するデータベース的世界モデルの中で動かざるを得ないのに、高校・大学や著作物を通じて、大きな物語が支配する近代社会モデルを植えつけられ、いわば「洗脳」されてしまっていたからだ。七○年代にアメリカで高まったニューサイエンスや神秘思想への関心は、この矛盾に対する葛藤の現われと言える。日本にも全く同じと言っていい思潮が現れたのは、アメリカに二○年ほど遅れてからだった。
 p97
 コジェーヴというロシア出身のフランスの哲学者は、戦後のアメリカで台頭してきた消費者の姿を「動物」と呼ぶ。コジェーヴが言う「動物」とは、与えられた環境を否定する行動を“しない”人間のことである。動物はつねに自然と調和して生きているからだ。
 コジェーヴはいらだたしげに言う。「戦後のアメリカでは、消費者は自分たちの“ニーズ”をそのまま満たす商品に囲まれ、あらゆるモードが、メディアの要求するがままに変わっていく。そこには飢えも争いもないが、かわりに哲学もない。そのような社会は人間的というよりも動物的なのではないか。彼らは記念碑や橋やトンネルを建設するとしても、それは鳥が巣をつくり、蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、蛙や蝉のようにコンサートを開き、子犬が遊ぶように遊び、成犬がするように性欲を発散するようなものであろう。」
 p98
 コジェーヴはこの「動物」的な生活様式を罵ったあと、その対極的な位置にあるものとして、――驚くべきことに――、日本的な二重道徳=スノビズムをあげる。この日本的なスノビズムは、たとえば自分の生命など、自然から与えられた環境を否定する実質的理由が何もないにもかかわらず、「形式化された価値に基づいて」それを否定する行動様式である。
 コジェーヴがその例に挙げるのが切腹だ。切腹においては、実質的には死ぬ理由が何もないにもかかわらず、名誉や規律などの形式的な価値に基づいて自殺が行われる。これは究極的な二重道徳=スノビズムである。スノッブたちの自然との対立(たとえば切腹時の生存本能との対立)は、いかなる意味でも歴史を動かすことがないからである。
 p99
 コジェーヴのこの議論は短い日本滞在と直観だけに基づいており、多分に幻想が入っている。しかしまさに彼の指摘のあと、日本ではオタク文化が出現し、オタクたちは江戸文化の後継者を自任しつつ、新たなスノビズムを洗練させていった。
 オタク的感性の柱をなすのは 「騙されているのを承知の上で本気で感動したりもする」 独特の感性である。オタクたちは、 「大人になってからあえて、“子供騙し”の番組を見る、 というのも相当無意味な行為」であることを知っている。このような、形式的な「価値」や「趣向」を、実質的な無意味から切り離すことで成立するオタクたちの感性は、コジェーヴが指摘した二重道徳=スノビズムの特徴そのものである。
 p105
 二○世紀は一言でいえば、超越的な大きな物語はすでに失われ、またそのことはだれもが知っているが、しかしだからこそ、そのフェイクを捏造し、大きな物語の見かけを、つまり、生きることに意味があるという見かけを信じなければならなかった時代である。生は無意味だが、無意味であるがゆえに生きるというシニシズムは、その時代のきわめて多くの人にとって切迫した考え方だった。
 このような視点で見ると、オタクの二重道徳=スノビズムは、江戸文化の形式主義の延長線上にあると同時に、またこの世界的なシニシズムの日本的あらわれであったことが理解できる。