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東 浩紀 「動物化するポストモダン」4/5(講談社)

 解離的な人間
 p114
 二○○○年発売の『Air』という有名なノベルゲームがある。両作とも販売上は成人向けゲームとされているものの、ゲーム本体部分にはポルノ的なイラストをほとんど含まない「秀作」である。
 実質的なストーリーが展開する後半部だけでも、プレイ時間は一○時間以上という大作だが、そこではひたすらヒロインのメロドラマが淡々と語られる。そしてそのメロドラマも、「不治の病」「前世からの宿命」「友だちの作れない孤独な女の子」といった「萌え」要素が組み合わされて作られた、きわめて類型的な、子供騙しの物語である。
 物語の舞台がどこなのか、ヒロインの病気とはどういう種類のものなのか、前世とはどんな時代なのか、そのような重要な事柄がすべて曖昧なまま、『Air』の物語はただ陳腐な設定だけを組合わせて進んでいく。
 それでもこの『Air』は、高い価格にもかかわらず一○万部以上を売り上げ、商業的に大きな成功を収めた。『Air』の類型的・抽象的ストーリー中に、オタクたちが言う「深い」、「泣ける」要素がふんだんに配され、「粋」だからである。この点では、『Air』がヒットした事実は九○年代の「猫耳」や「メイド服」への関心の高まりと本質的に変わらない。そこで求められているのは、旧来の物語の迫力ではなく、世界観もメッセージもない、ただゲーマーの感情が“効率よく”動かされるための方程式なのである。
 p124
 巨大なデータベースが支配するノベルゲームの世界では、作品の深層、すなわちコンピュータ・システムの水準では主人公の運命は複数のものが「平等に」用意されている。Air』のストーリーはゲーマーがどのキーを打つかによって幾通りにも分岐する。そのことは、プレイヤーだれもが知っている。しかし作品の表層、すなわちドラマの水準では、(プレイヤーが選んだ或る分岐後の)主人公の運命はただ一つということになっており、プレイヤーは自分自身が選んだ分岐に同一化し、感情移入し、ときに心を“深く”、“効率よく”動かされる。
 ノベルゲームの消費者はその矛盾を矛盾だと感じない。彼らは作品内の運命が複数あることを知りつつも、同時に、自分が選んだ目の前の分岐がただ一つの運命であると感じて作品世界に感情移入している。
 近代の小説では、主人公の小さな物語は、必ずその背後の大きな物語によって意味づけられていた。だからこそ小説は一つの結末しか持たず、またその結末は決して変えられてはならなかった。
 対してポストモダンのノベルゲームにおいては、主人公の小さな物語は意味づけられることがない。一つのノベルゲームの中にいくつもの運命と結末があるが、それぞれの物語はデータベースから抽出された要素が、そのときのプレイヤーの偶然の選択で組み合わされ、作られたものなのだ。
 大きな物語による意味づけを運命だと考えるのか、多くの可能性の束から選ばれた組み合わせの希少性を運命だと考えるのか、おそらくここには、小説とノベルゲームの差異にとどまらず、近代の生の考え方とポストモダン的な生の考え方の差異が、象徴的に示されている。
 p126
 再言するが、コジェーヴが言った「動物化」とは何か。彼によれば人間は「欲望」を持つが、動物は「欲求」しか持たない。たとえば食欲は人間と動物に共通な「欲求」であり、食物を食べることで完全に満たされ、消えてしまう。だが「欲望」は、望む対象が与えられ、欠乏が満たされても消えることがない。
 「欲望」と「欲求」の差別化はやや一般性を欠くとも言えないことはないが、仕事の現場でマニュアル的対応に終始する若者の顔に、相手とコミュニケーションを一過性で終わらせようとする表情を常に読み取るのは、私だけだろうか。
 アメリカ型の消費社会の論理は、いまでは世界中を覆いつくしている。マニュアル化された現在の消費社会においては、消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに瞬時に機械的に満たされるように日々改良が重ねられている。
 従来なら生身のコミュニケーションなしには得られなかった対象、たとえば食事や性的なパートナーも、いまではファストフードや性産業で、いっさいの面倒なコミュニケーションなしで手に入れることができる。満たされても消えることがない欲望の対象が、いつでも与えられるようになったわけだ。この限りで、私たちの社会はこの数十年間、確実に動物化の道を歩み続けてきたと言えるだろう。
 p128
 上のように考えると、オタクたちの消費行動もまた「動物的」という形容にまさに相応しいように思われる。オタクたちの行動原理は、あえて連想を働かせれば、対象にフェティッシュに耽溺する性的な人間のそれではなく、薬物依存者の行動原理に近いようにも思われる。あるキャラクターデザインに出会って以来、脳の結線が変わってしまったようだ、憑りつかれてしまったようだ、とは、少なからぬオタクたちが実感を込めて語る話である。