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東 浩紀 「動物化するポストモダン」5/5(講談社)

 p130-1
 オタクたちのセクシュアリティは保守的であるといわれる。動物化の流れを念頭に置けば、一見奇異な感じを受ける彼らの性的保守性も、説明はそれほど難しくないのではないか。
 動物の消えやすい欲求と、人間のしつこい欲望が異なるように、動物の性器的な「欲求」と人間の主体的な「セクシュアリティ」は異なる。そして、成人コミックやギャルゲームを消費する現在のオタクたちの多くは、それらの倒錯的なイメージで性器を興奮させることに、動物的に慣れてしまっているという事情がある。一○代の頃から膨大なオタク系性表現に曝されているため、いつのまにか少女のイラストを見、メイド服を見ると性器的に興奮するように訓練されていまっているのだ。
 しかしそのような興奮は、本質的には訓練の問題であり、経験を積めばだれでも簡単にできるようになるものである。それに対して小児性愛や同性愛は、それを自分のセクシュアリティとして主体的に引き受けるという決断が必要であり、慣れとか訓練で済む問題ではない。
 オタクたちの性的自覚は、ほとんどの場合、とてもそのような水準に達していない。だからこそ彼らは、一方でいくらでも倒錯的なイメージを消費しながら、現実の倒錯に対しては驚くほど保守的であるという奇妙な二面性を持っているのである。成人コミックやギャルゲームに興じる若い夫婦のセックスレスということも、この観点からアプローチが可能である。
 と、ムズカシイこともいいが、分子生物学者・福岡伸一氏が『遺伝子はダメなあなたを愛してる』で言っているジョークもひとつ。「草食系という言葉が、性的に淡白な男子、という意味で使われることに、私はかねがね疑問を抱いています。だって、羊にしろヤギにしろ、牛にしろ、草食系の動物はセックスにとても貪欲で、行為も激しく、そのときの鳴き声なんて、それはそれは騒々しいなんてものではすみませんからねえ・・・・・」
 
 p135-6
 ポストモダンの時代には人々は動物化する。実際、この一○年間のオタクたちは急速に動物化した。他人とのコミュニケーション不全に陥った彼らのために、食事も、性的交渉さえも面倒なコミュニケーションなしで手に入れられるよう、ファストフードや性産業のサービスはみごとに機械化、マニュアル化されてきた。
 しかしこのような主張には反論があるかもしれない。なるほど、オタクたちが作品に向ける態度は動物化しているだろう。しかし彼らは同時に、社交的な人々としても知られているのではないか。オタクたちはネット上のチャットや掲示板、現実世界でのオフ会や即売会などで、きわめて多様なコミュニケーションを展開しているのではないか。オタクたちは今でも、世代にかかわらず、友人とコレクションを競い、嫉妬し、虚勢を張り、ときに党派を作って誹謗中傷しあっている。これはいつの時代にもあったまったく「人間的」な振る舞いではないのか、という反論である。
 ところがそうではないのだ。幾度も繰り返しているように、オタクたちは現実よりの虚構のほうに強いリアリティを感じ、そのコミュニケーションも大部分が情報交換で占められている。言い換えれば彼らの社交性は、親族や地域共同体のような現実的な必然で支えられているのではなく、特定の情報への関心のみで支えられている。
 したがって彼らは、自分にとっては有益な情報が得られるかぎりでは社交性を十分に発揮するのだが、いったん不愉快な情報に接するとそのコミュニケーションから離れる自由もつねに留保している。ケータイの会話にしろ、ネット上のチャットにしろ、不登校や引きこもりにしろ、そのような「降りる」自由は、オタク系文化に限らず、九○年代の社会一般を特徴づけてきたものである。
 オタク系文化に馴化した彼らは学校を卒業すると、数多くの「自分にとっては不愉快な情報」に接することを強いられる。ここ数年、新入社員の入社後一年以内の退職率が大学卒で三分の一、高校卒では三分の二にもなっているという異様な数字は、その彼らが不愉快なコミュニケーションから「降りる」自由を行使したことを物語っている。