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夏目漱石 「文学論」上(岩波文庫)

 p24-27
 ロンドン留学から帰国し東大講師となった後、『猫』、『坊ちゃん』、『草枕』などで文名を上げても、漱石は鬱々と暗かった。『文学論』の『序』は怒りに満ちて悲痛である。
 倫敦に住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営みたり。
 ・・・余が、今日に至るまで君ら英国紳士が東洋の子供に予期したるほどの模範的人物となる能わざるを悲しむ。されど余は自己の意思を以て行きたるにあらず。自己の意思を以てすれば、余は生涯英国の地に一歩も足を踏み入るることなかるべし。従って、かくのごとく君らの御世話になりたる余は、ついにふたたび君らの御世話をこうむるの期なかるべし。
 帰朝後の三年半も、また不愉快の三年半なり。されども余は日本の臣民なり。・・・余は本国を去るの挙に出づる能わず、むしろ力の続く限り日本臣民五千万分の一の光栄と権利を支持せんと欲す。これ余が意思以上の意思なり。意思以上の意思は、余の意思を以て如何ともする能わざるなり。余が意思以上の意思は余に命じて、日本臣民たるの光栄と権利を支持するために、いかなる不愉快をも避くるなかれと云う。・・・・。
 余の神経衰弱と狂気とは命のあらんほど永続すべし。永続する以上は、今後幾多の「猫」と「坊」と「草」を出版するの希望を有するがために、余はとこしえにこの神経衰弱と狂気の余を見捨てざるを祈念す。
 この『文学論』そのものは、「文学たるもの」を正面から説こうとした東大一年生向けの講義録なので、さして面白いものではない。
 漱石は「意識の波」について強い関心を持ち、『こころ』や『明暗』といった作品で、閾下の意識が覆いかぶさるようにして閾上の意識の流れを変形させていく過程を執拗に描写している。しかし、この講義録ではそれを外側から概説しようとしているだけなので、学者先生の分かったような分からぬような一般論になっている。ただ漱石好きの人にあっては、この知識があって『こころ』や『明暗』を読むか読まないかは、衝撃の度合いにおいて大きな違いがある。
 
 p272-3
 人は、自己のうちに意識を尋ねてなにものも得る能わざるときは呆然として自失すべし。囚人のもっとも恐るるは苦役にあらず、ただ暗室禁固にあるのみ。呆然として自失したる後、ふたたび何ものをか明らかに意識せんと願わざるべからず。これを願いて切なるときは、ついに意識しうるならば苦痛なりとも辞せずと思うに至る。
 苦痛はもとより苦痛なり。ただこの苦痛が自己の意識に登場し来るは、一面において自己の死物ならざる、自己の独房禁固囚ならざるを証明するものなり。かかるがゆえに日もなく夜もなく、時もなく空間もなくただ石の如き一塊たらんよりは、むしろ苦痛を自覚して生命の確証を得んとするは人情なり。
 p274
 悲劇作品の関するところは生死の大問題なり。ただそれはわが苦痛にはあらず。役者の仮装せる苦痛にして、吾が身には一大安心あり。仮装にして真を欺くの技あるがゆえに、独房禁固囚ならざる吾人の意識を盛んならしむ。これ吾人が好んで悲劇に赴く第一の理由ならざるか。
 p282
 この悲劇に対して注ぐ涙は贅沢の涙であって、「俺は英雄あるいは古人に通じているぞ」との、観客の世間に対する優越意識が充満したものである。これを裏面よりいえば、その観客が善を愛し悪を憎み、不幸を憐れみ逆境に同情するの念の切なることは、その頬を伝わる涙にて明らかなりとの吹聴とも解していいだろう。
 ショーペンハウアー厭世観はその贅沢の典型である。かれがこの世に関し真面目な悲観を抱いていたことは事実であるが、その悲観は畢竟一種の絵画に過ぎない。普通の観客が劇のドタバタに目を奪われていても、ショーペンハウアーはすべての注意を集めて俳優の一挙一動を見逃さず、かくして彼は深く感動し、同時にその胸中に満足を得て家に帰り、見たところを書きつけるのである。