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池内 紀 「ことばの哲学」(青土社)

 p130
 英語でもドイツ語でも、熟語、慣用句は、ある種の文章の中で前置詞が特定の機能を発揮し、意味のほかに特定の役割を帯びてくる。つまり特定の「形態」を獲得し、おのずと語や文は「意味と意味形態の二重性」を帯びてくる。
 ひとたび慣用句が特定の形態をとると、もともとの意味を離れ、おそろしく勝手気ままで自由自在な機能を帯びる。言語には意味の世界のほかに、「言語の世界」があるのである。
 「言語の世界」はそれ自身、意味の世界に合せる使命をもちながら、本末を転倒させて、意味の世界を規定したりもする。(p184)そしてこの微妙な言語的境界については、それ自体が語る言葉を、われわれはどの言語においても持ちえない。
 p132
 論理的な思惟のカテゴリーに対して、上とは別個に、「言語的な思惟範疇」というべきものが存在する。意味は同じでも感じが違うとき、それは同じ意味ではなく、論理を超えた意味形態を帯びており、二つは区別しなければならない。
 p168
 ヴィットゲンシュタインの箴言
「世界は成立していることがらの総体である」
「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」
「世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。なぜなら、事実の総体は、何が成立しているかを規定すると同時に、何が成立していないかをも規定するからである」
「言語のうちにおのずと現れるもの、われわれはそれを言語によって表現することができない。」