アクセス数:アクセスカウンター

上野千鶴子 「家父長制と資本制」 1/2(岩波現代文庫)

 p17-9
 啓蒙主義フェミニストにとって問題となるのは、人々の「遅れた意識」だけである。この「遅れた意識」を変えるのは啓蒙の力である。
 啓蒙主義フェミニストにとって真理はつねに単純である。「男女平等」という単純きわまりない真理を受け入れることのできない人々は、啓蒙主義者の眼には、まったくの不可解と映る。この「度しがたい人々」は、真理の力で救済することができなければ、力の論理で封じるしかない――この考え方は、強姦に反対するあまり、治安警察国家を招きよせてしまいかねない女性運動の背理に通じている。そしてその上で啓蒙家であり続けるためには、疲れを知らない精神力の持ち主である必要がある。
 女性解放のエネルギーが向かうもう一つの方向は、プラグマティックな被害者救済型の運動である。アメリカ白人中産階級女性のフェミニズムはボランティア活動のよき伝統を引いているが、彼女たちは、理論を語るまえに、夫に虐待された妻のための避難所や未婚の母のためのクリニックをさっさと開設し、運営する。彼女たちは目前の活動に忙しくて、「理論など必要ない」状況にある。
 しかしそこに次々に送り込まれてくる女性たちに対して、何が彼女たちを「被害者」の立場に置くのかを構造的に知らなければ、彼女たちに援助を与えるフェミニストたちの活動は、終わりのない徒労ではなかろうか。「理論」を欠いた「思想」は、しばしば信念や信仰へと還元されてしまいがちである。
 p48
 「家事は労働である」との概念は、主婦が遂行している労働についての認識を高め、かつ女性の権利意識を助長するのにあずかって力があった。これまで主婦が黙って「当然」やってきた仕事が、「不当」に押し付けられたものという認識をもたらすことによって、女性は、この認識以前には持たなかった「剥奪」感を持つようになったのである。
 この「剥奪」の認識を通じて「女性=被抑圧階級」としての「女性階級」意識が形成される。だからフェミニズムの理論は、女性たちに不満と怒りをひきおこす点でトラブルメーカーであり、世上、「かつて女たちは自分たちの身分に不平を言わなかった」といらだたしげにいわれるのも無理はない。
 p49
 「愛」と「母性」が、男性がそれに象徴的な価値を与えて祭り上げ、女性の労働を搾取してきたイデオロギー装置であることは、フェミニストによる「母性イデオロギー」批判の中で次々に明らかにされてきた。「愛」とは夫の目的を自分の目的として女性が自分のエネルギーを動員するための、「母性」とは子供の成長を自分の幸福とみなして自分自身に対しては控えめな要求しかしないようにするための、イデオロギー装置だった。
 女性が「愛」に高い価値を置くかぎり、女性の労働は「家族の理解」や「夫のねぎらい」によって容易に報われる。女性は「愛」を供給する専門家なのであり、しかもこの関係は一方的なものであった。
 p58
 六○年代初頭のフェミニストの問題提起――「家事労働はなぜ有用であっても経済学的には価値を生まない」か――は、教条主義的なマルクス主義経済学者の回答、「家事労働は交換価値を生まないから不生産労働である」という結論をのんで、「朝から晩までこんなに働いているのに」という実感的な不満を主婦に残したまま、終息してしまった。
 当時、マルクス主義経済学者の誰ひとりとして、「主婦の実感」から発した「素人の疑問」を、市場原理の及ばない「家族」という社会領域を解明できないマルクス理論への挑戦と受け止め、マルクス理論の「限界」について考えてみる人は現れなかった。フェミニストの持ち出した「家事労働」論争は、適切な問いを立てながら、マルクス主義の側からていよく門前払いを食らわされたのある。
 その一方、フェミニストの側にも、悪いのはこの「実感」を理論化できないマルクス主義の方であり、女性は自力でこの限界を超えてマルクス主義を作り変えるべきだと考える人も出なかった。この時期の女性論はまだフェミニズムによるパラダイムの転換を、既存の諸科学に対して要求するまでに成熟していなかったのである。フェミニズムがたんなる女性の地位向上でなく、女性の解放を阻んでいるものを構造的に考察し、社会と意識のパラダイム転換を要求するに至るには、七○年代のリブとそのインパクトを受けた女性学の成立まで待たなければならなかった。