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上野千鶴子 「家父長制と資本制」 2/2(岩波現代文庫)

 p75
 家族を支配―被支配を含む再生産関係とみなして分析するむずかしさは、家族が一種のブラックボックスであり、かつ歴史貫通的に「自然」なものと見なされてきたことにある。とりわけ近代産業社会が、家族を競争社会からの避難所、私的な砦と見なすことにして以来、家族は打算や功利の入り込まない無私の共同体、超個人的な単位と考えられてきた。
 だから、フェミニストの分析がこの「聖域」に及んだとき、そしてこの見かけの「共同性」のなかに歴然とした抑圧と支配のあることを暴露したとき、多くの人々は、男も女も、信じていた神話が崩れたことにうろたえ、逆にフェミニズム功利主義や経済合理主義の名の下に攻撃した。
 p76
 しかしいったん「愛の共同体」の神話から離れてみれば、この私的な「聖域」の中でどのような暴力と抑圧が行われているかが、いよいよ明らかになる。プライバシーの「神聖」をもって家庭は公的な干渉からドアを閉ざすことが可能になるために、かえって現代社会では、家庭が個人的な暴力の主要な領域になっている。夫の妻に対する暴力と、子供の虐待は、私的領域の確立の当の産物である。
 p80
 「家族」は、親から子への配慮のような一般的互報性――見返りを期待しない愛他的な原則――が支配するゲマインシャフト(共同態)とみなされている。ほんとうにそうだろうか。ゲマインシャフト(共同態)とゲゼルシャフト(結社態)とは、社会学者テンニースの「発明」した対概念だが、テンニースは、ありもしないものを過去に仮構するというロマン主義的な錯誤を――おそらくは一元的な進歩史観と結びついて――犯していたにちがいない。
 「家族」の特性が、ゲマインシャフト的な要素――愛、融和、慰め等々――によって語られるようになったのは、むしろ近代形成期以降である。その意味では、ゲマインシャフトとは、今日の企業のように利害関係に基づいて人為的に作られた社会(利益社会)を指すゲゼルシャフトに随伴した、ゲゼルシャフトの影の部分とも言える、きわめて近代的な概念なのであり、少なくとも前近代的な概念などではない。
 p128
 欧米の福祉国家は老人介護の責任の多くを公共部門に移管してきたが、この老人福祉政策には世代間の家族関係にあたえる特別な含意があった。老齢年金の中産階級に対して持つ魅力は、自分たちが“将来”受け取ることになるであろう利益よりは、むしろ“いま・ここで”ただちに、両親の面倒を見なくてすむという保証にあったのだ。この結果、子供たちは老人福祉の原資を自分たちが負担しなくてもよいことに気づき、社会福祉制度の充実した国ほど子供数が減少することになった。
 p224
 一六世紀から一七世紀にかけて、たびたび救貧法が発布される。救貧法は福祉立法の原型といわれているが、その成り立ちを考えると、福祉国家化がポスト資本制国家であるという発展段階説はあやしくなる。社会福祉とは、資本制の成立のごく当初から、資本制に随伴して、いわば資本制の補完物として、登場したものにすぎないからである。
 「自由市場」は「国家」をミニマムにすることを要求したはずなのに、その実、その当初から市場の「外部」に社会福祉施策を実施する機構としての大きな)国家を要請していたのである。それはあたかも、自由市場が最初から自分の限界を知っていたかのようにみえる。市場原理を論理的に極大化すればかえって(福祉立法による救貧施策という)ノイズを増幅するというパラドックスに陥ることを予測していたかのように。
 p226
 以下は、フェミニスト特有の、「弱者」の被害感情を一般化し、弱者の怨念=ルサンチマンを社会通念化させたいときの不愉快な言説の一例。「前近代社会では九歳の少年は一人前の稼得能力を持っていた。それが福祉立法によって労働を禁止され、代わりに教育を強制されるようになった。教育の機能とはより質の高い労働力を次代の市場に送り込むことであった。・・・教育とはたんに自己充足的な活動ではない。被教育者である子供は、自己の負担において、労働者になる準備のための労働を行っているのである。教育を受けることがその強制的性格において一種の労働であること、かつ市場の外での不払い労働であることの二つの点で、被教育労働は「労働と認知されない労働シャドウ・ワーク」であるといえる。
 お説はいちいちごもっともであるが、では人々の蒙きを啓くあなたのプロパガンダはその強制的性格をもった被教育労働のおかげではないのかね、と悪態をつきたくもなる。
 p389
 で、フェミニズムとは何なのかということはどこまで行っても分からない。男とは何なのか、女とは何なのか、働くということは何なのか、など問いになり得ないものを問いにしているからである。著者が『付論』の最終行に書いた次のセンテンスは、こうした「問いになり得ないものを問う」ことへの自己批判なのかもしれない。
 最後に、ありとあらゆる変数を問わず、労働の編成に内在する格差の問題が残る――それは、なぜ人間の生命を産み育て、その死を看取るという労働(再生産労働)が、その他のすべての労働の下位におかれるのか、という根源的な問題である。この問いが解かれるまでは、フェミニズムの課題は永遠に残るだろう。